heart beat


ぴちょん。

 

夜中、一度目が覚めた。
 家族がいないから、という理由で訪れることになった神尾の家は、以前来たときと変わらず(当然だが)狭苦しくて、薄い壁で囲んでようやく神尾ひとりのテリトリーを作るようなマンションの一室だった。
 夏の終わりとはいえまだ夜は寝苦しい。部屋にはエアコンがない上、シングルベッドに無理矢理二人収まって寝ているのだから尚更だ。
 対する神尾はといえば、壁に向かって窮屈そうに身を捩じらせながらも規則正しく寝息を立てている。そんな状態でも熟睡に近い状態で眠れるのはこんな夜に慣れているからか、それとも。
 セックスのあと神尾は、「このままここで寝てくれよ」と目を閉じたまま呂律の怪しい舌で言い、そのまま客用の布団を敷くこともなく寝入ってしまった。
 やりすぎた、という気はしない。ただ、まだ残る昼の暑さが存外に堪えていただけで。
 汗ばんだ体に纏わりつく湿気の不快さで眠れずに無駄な思考をぐるぐると回転させていたところに、その音は耳に入ってきた。

ぴちょん。



 水音。
 そういえば、先刻浅い眠りから引き戻されるときに聞いたのもこの音だったろうかと靄のかかった記憶をたどる。だがやはり判然としなかった。
 それは普通なら聞こえないほどの微かな音なのに、一度聞いてしまうとずっと聞こえるような気がするのは何故だろうか。どこからなのかははっきりとはしないが、流し場か洗面所からだろうか。蛇口が緩んでいるらしく、一定の間隔で雫の落ちる音がする。
 周囲は静寂に包まれていて、とはお世辞にもいえない。目を閉じて息も潜めてみれば、古い冷蔵庫の立てる音や、外の道路を走る車のエンジン音も聞こえてくる。
 だが、そんな遮るものの多い中にあってその音は、まるで耳元で立てられるかのようにはっきりと聞こえてきた。目を閉じた所為か、余計に近くに。



ぴちょん。



ぴちょん。




 羊を数えるのと同じに、この音を数えてみれば眠れるだろうかと暫くは実践してみたが、眠りの訪れる気配も全くない。それどころか返って音が気になって目が醒めてくる始末だ。
 舌打ち一つして寝返りを打とうとすると、横にして共用しているタオルケットが引っ張られてこちらに背を向けていた神尾の体がごろりと仰向けになった。肩が触れあい、すぐ真横に頭がくる。もともと水気の多い気がする神尾の重たい髪が、汗に濡れて束を作りながら枕の上に散らばった。
 と、伏せられていた神尾の睫毛が震えた。今の寝返りの拍子に目が覚めたらしい。一度ゆっくりと瞼を開いて、その後焦点の合わない目を何度か瞬かせる動作を真横から最後まで見届けたところで、漸く神尾はこちらを向いた。
「…んだよ、起きてたのか、跡部……」
 間近で目が合ったのにたじろいだのは一瞬だけで、神尾は語尾に欠伸を交じらせて言った。今何時、と気だるそうに体を起こして壁の時計を確かめる。
「まだ3時前じゃん…」
 汗を吸った白いシャツの前を煩わしげにばたばたとさせ、もう一度横になる。
 そのままあっさりと眠りの淵に落ちていきそうなのが何となく気に食わなくて、声をかけた。
「おい」
 すでに目を閉じかけていた神尾は、何だよ、と眉根を寄せた。
 声をかけてはみたものの、寝るなと言うのは少し理不尽な気がして代用の言葉を探す。
 そこへ、わずかな沈黙に合いの手を入れるように音がした。


ぴちょん。



「…あの音、」
「は?」
 蛇口を締めに行かせれば、安眠を妨害するものがひとつなくなる。そう思って少し口を閉ざし、さっきから聞こえてくる水音を示したが、神尾の反応は淡白だった。
「ああ、あれ?」
 台所の流し場の蛇口だよ、と神尾は言ったがそれだけで、判ってるなら締めてこいと言っても、
「無理、蛇口傷んでてちゃんと締まらねぇんだよ」
と、さらりと拒まれた。ちゃんと下に洗い桶受けてあるから大丈夫、とつけたされたが、そういう問題でもない。
「おい!」
 再び背を向けた神尾の肩を無理矢理引いて仰向かせる。先刻から二度も寝入りばなを叩き起こされた神尾は、相当不機嫌そうに睨み上げてきた。
「も…、何だよ…!」
 肩にかけられた手を乱暴に払いのけ、押し殺した声で不平をたれた。
「寝られねぇんだよ、あの音が気になって!」
「だから蛇口締まらねぇんだからどうしようもないだろ!我慢しろ!」
 お互いに体を起こしても声が抑え気味になるのは隣人を憚ってのことだ。だがその所為で、発散できないストレスが腹の底に溜まって余計に苛立ってくる。それは神尾にもいえることらしかった。
 しばらく「わがまま」だの「それが客に対する態度か」だの不毛な言い争いを続けてから、神尾は半ば息を切らしながら言葉の方針を変えた。
「ちきしょ…、てめーの所為で目ぇ覚めちまっただろーが…」
 一回起きたらなかなか寝られねぇんだからな、夏は!とぶつぶつ言いながら、神尾はベッドから降りた。重量オーバーから解放されたベッドがギシ、と音を立てる。
「布団敷いてやるよ、そっちのがマシだろ」
 ややおぼつかない足取りで部屋を出た神尾は、5分も経たずに布団を一揃い抱えて戻ってきた。なれない仕種で神尾がそれを敷くと、ぞんざいに広げられて伸ばしきれていないシーツの上に外の街灯の光が青白く濃淡を作った。せめて寝られるだけでも、と、布団の真ん中辺りの皺だけを伸ばそうとする神尾の手も、白く。日の光の下で見ればもっと日に焼けて黒く見えるのだろうけれども。
「用意できましたよ跡部様」
 あからさまな皮肉でもって布団を敷き終えた神尾が、立ち上がってこれで文句はないだろうとばかり見下ろしてきた。さっさと寝ろよ、と顎で指し示す。

ぴちょん

 それがまた、気に食わなかった。欲しいのはただ眠りだけではなくて。


ぴちょん

 

 人を苛立たせるあの音はまだ聞こえていた。

「神尾、」
「何だよ、まだ何か…っ!」
 神尾の腕をつかんで引き寄せる。まともにバランスを崩した体を、ベッドの上で組み敷いた。
「やらせろ」
「は!?」
「寝られねぇって言ってんだろ!」
 じたばたと暴れる神尾を、唇をあわせて腕の中に封じる。嫌なら噛みつくなり何なりすればいい、それ位はできる性格だろう。
「何のために布団敷いたんだよ俺は」
 唇を放してしまった後は、不満も不平も零れて落ちるだけのガラクタになる。肩口にかけられた神尾の指がぐ、と爪を立てて、それで終わりだった。


ぴちょん

「同じ、音をさ…、ずっと同じ間隔で聞いてると、頭がオカシくなるんだって」
 音楽の先生が言ってた。そういう拷問があるくらいなんだって。
 熱を誤魔化すように神尾が口を開いた。
「跡部が苛立ってたの、その所為かもな」
 まだ聞こえんのかよ、と言うのに、手は止めずに首を振った。
「別の音がうるせぇからな」
「?」
 神尾の胸の辺りに耳を当てる。多少場所がはずれていても、はっきりと聞こえた。
 それは水音とは比べ物にならないくらい速いとはいえ、規則正しく同じ間隔で聞こえてくるものなのだけれども、神尾の言うように苛立つどころか、むしろ。

「心臓の音」
 
欲情したように神尾の心臓が、トトン、と不整脈をうった。

この音がほしかったのだと、声には出さず、呟いた。


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拷問の話は多少誇張してますが本当らしいです。