*no title*

辺りは空から順に茜色に染まり始めていた。

 その日の跡部はどこか落ち着かず、早く帰りたいようなそぶりを見せていた。久しぶりに会ったというのに会話が弾まず、時折妙な沈黙が挟まるのもその所為だ。

「……聞いてる?」

 今日何度目かの、上の空の跡部を呼び戻すための問いかけを口にして、幸村は溜息をついた。見舞いに来ておいてそれはないだろうと不満も募る。
 これが幾分苦労性の気がないこともない自分のところの副部長であれば迷いなく「帰ったらどうだ」と提案できるのだが、相手は気苦労が避けて通るような人物である。貴重品のような物想いの横顔を対処に困って見つめているうちに、日も暮れかけていた。無為に時間ばかりが過ぎていく。時間を急くような性格でも立場でもなかったけれども。
 住み処に帰る鳩の一群が頭の上を通り過ぎるのを見ながら、次黙ったら面会時間を理由に帰らせようと幸村がようやく決断したとき、跡部の携帯が鳴った。
 屋上に移動していてよかったなと思ってから、聞き慣れない着信メロディに首をかしげる。そもそも跡部がデフォルト以外の着信音を使っているのを幸村は聞いたことがなかった。以前、変えないのか と尋ねたら別に必要ねぇだろ、と言われてそれはそうだと納得したこともあるくらいで。
 考えている間も携帯は鳴りつづけている。取らないのかと訊こうとして再び顔を跡部の方に向けた幸村は、喉元まで出かかっていたその言葉を一度飲み込んだ。
 着信メロディは2周と半分流れたところで途切れた。その間、跡部は瞬きすらほとんどせずに、同じ表情のままで動きを止めていた。かるく下の唇を噛み、僅かに瞳を伏せて何かに耐えるように。院内と違って薄汚れた足元へ向けられた視線は、そこにある何をも見ていなかった。
「いいのか」
「……」
 問いかけに返事はなかった。

「……跡部」

 つまりはそういうことなのだろうと思った。今の電話が、跡部の物想いの原因なのだ。
 だがそれがわかったところでどうなるものでもない。跡部は頑なに口を閉ざしたままだったし、電話の主を幸村が知るはずもなかった。
「……あと、」
   呼びかけた名前が途切れたのは、不意に抱きしめられたからだった。薄いパジャマと夏服のカッターシャツで隔てられた体温は幸村のそれよりよほど正常で、跡部の態度とは全くの裏腹だった。
 まわされた手が振りほどかれるのを恐れるようにきつくパジャマの背中を掴んでいる。息苦しいくらいに強く引き寄せられている。

すがるように。

 自力で腕の中から逃れることを早々に諦めた幸村は、空いた手をそっと跡部の背に添えた。それからあやすように軽く、二、三度背を叩く。
「こうしたいのは俺じゃないんだろう?」
 肩越しに、藍に沈み始めた東の空を見ながら呟いた。
 跡部は何も言わなかった。
 離れていく体温はけして遠くない『以前』を思い起こさせて鼻の奥に痛みを残していったが、惜しんだところでどうせもう自分のものではないことは二度確かめなくとも明白だった。
「帰った方がいい」
 泣き顔のようなポーカーフェイスの頬に軽く指先で触れて、背中を押すように柔らかく笑った。意図したわけではなくそんな顔を跡部に対して向けたことに僅かに驚きながら。
「まだ、触れられるうちに、帰った方がいい」


 空の藍は次第に濃くなり、ゆるやかに闇が迫る。
 鉄製の扉の向こうに消える寸前翻ったシャツが、ああ、綺麗だな、と思った。あんな痛みを抱えているのに。いや、あの痛みゆえなのか。

「今日は珍しいものばかり見てた気がするな…」

 口数の少ない跡部、物想いの表情、泣きそうな。
 その全てがただ一人に収斂され、向けられているという、事実。
 一体他にどれだけの人間があの存在にあんな顔をさせられるのだろう、と思った。
 輪郭の取れない感情を自分の中に見つけて、幸村は眉を寄せて独り笑う。
 嫉妬とは違う。そんな執着はもう持ち合わせていない。
 ただ、うらやましい、と思った。だがそれが何に対してなのかが掴めない。
 跡部に想われる誰かにか、そんな強い感情を見つけた跡部にか。


 背伸びをしてベンチから立ち上がった。体は随分と冷えていて、先刻とは違う意味であの体温が恋しくなった。検温までにベッドで体を温めておかないとまた看護士に睨まれる。


(……貸し一つ、)
 次の見舞いには某ケーキ店のミルフィーユと、そのクリームよりも多分ずっと甘い話を期待して、人工の明りの中へ、身を滑らせた。


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軽くするつもりだったのに何かあれ…?って感じの話に…(汗)。
幸村はオリジナルキャラよりすこしだけ跡部に近い第三者な設定です。
はい、私しか楽しくない話です、失礼しました。
でも幸村がこんな人だといいなぁ(夢見がち)。