ある途切れた恋の話

 

悪いなんて多分ちっとも思っていない顔で、それでも申し訳ないようなふりをして、そのひとは「悪ぃ」と言った。
一晩ぶんの涙で、流れておちた。
それで、おしまい。


「跡部様、また彼女できたみたいよ」
「どっか他の学校の子らしいけど。」
「ホント、チャンスって短いねー」


 聞こえよがしのクラスメイトの声は、鬱陶しいことこの上ない。まだふさがるわけもない傷を、わざわざえぐる。
 やっぱりあんたみたいなのと跡部様が長続きするはずないのよ。裏側にそんな侮蔑をもっていることを、隠そうともしないで。
 私が絶対に付き合いたくないタイプだし、どんなにチャンスがあっても『跡部様』はあの子たちにはふりむかないと自信をもって言えた。ほんの少しの間でも、他の子たちより傍にいられたから、わかることだってある。そういう優越感。我ながら情けないと思うけれど、事実はぬぐえない。

 おととい、振られた。

 駄目で元々、玉砕覚悟で告白したのは、で、奇跡的にOKの返事がもらえたのは、そのぴったり2週間前だった。でも長くもった方なんだって、と慰めてくれる大事な友達は言う。そんな「つきあっていられた」期間なんて自慢しても全然嬉しくないんだけど。今のところ。
 チャイムが鳴った。
 トイレだとか、教科書を借りに行ったとか、めいめいの理由で席を離れていた子たちが戻ってくる。跡部、も。すぐに視線を外して前に向けたから、後ろの扉から入ってきて2列右の1列前の席に座った彼と目があうことはなかった。
 先生はまだ来なくて、少しざわめく教室。彼は誰と話すこともなく、眠るみたいに目を伏せていた。
 3年連続でこのひとと同じクラスにいられたのは幸運だったと思う。英会話のディスカッションが同じ班だったり、たまたま両親の仕事の都合でほんの1年ほどドイツに住んでいた経験が幸いして選択教科まで同じだったり。テニス部まで彼を追いかけていくような努力をしなくても、教室でいつも近くにいられたことは幸せだったと思う。
 だからこそ恋をする時間もできたのだけれど。
 最初は綺麗な顔だなあ、頭もよくて、テニスもすごく強いらしいし、なんでもできて派手なひとだなあくらいにしか思わなかった。周りが騒ぐほどに盛り上がれないで、でも同じクラスで、交流の機会は何度もあった。それで、気づいた。なんでもできるこのひとは案外、なんでも真剣にやっている。
 もちろん努力して何でもできるようにしてるんじゃなく、努力しなくてもできるものにまで、真摯に向き合っている。
 テニス部の活動が一番大事なんだろうな、ということは、少し見ていればわかった。「やっぱりテニスをしてるときが一番かっこいいね」と言っている彼のファンは限りなく多かったし、テニス部部長、として立っている彼は、他のときの彼とは明らかに違っていた。
 けれどその大事なテニス以外のことも、彼には無碍にできないことのようだと気づいてしまったのが、きっかけだったと思う。

 だって物心ついたころからピアノ弾いてた私なんかよりずっとピアノの譜面を見てるし。
 コーラスの指揮させたら合唱部と並ぶくらいの質になるまでとかって帰してくれないし。
 品がないとか馬鹿にしながら、ネイティブの先生に質問する時は完璧な英語だし。

 今思えばそれに気づくまえにもう私は彼に恋をしていて、その贔屓目だったのかもしれない。けれどそのときの私には彼が、自分にそれほどこだわりのないものに真剣になっている、それを自分の専門にしている人たちに気持ちごと合わせるように、全部に真正直に取り組んでいるように見えたから。
 だから、何かをしている彼、を、好きになった。
 何にも手を抜かない、彼を。

**

 頭の中の半分は、ああもう駄目だなあっていう悲しみで、もう半分はああやっぱりね、という諦めだった。
 他に好きなコができたの?と訊いたら、笑い出したいのと苦々しいのとが混ざった文字通りの苦笑でもういちど、「悪ぃ」と言った。
 たぶん肯定だった。

「というか、それ自体が珍しいことなんだってあんたわかってる?」
「……だから何回も言ってるけど振られたことにかわりはないんだからそんなことで悦に浸れないってば……でもありがと」

 駅前のスタバでコーヒーをおごってくれた友達は、眉を寄せて笑う私の頭を撫でてくれた。

「あの跡部様が謝るなんて!それをやらせただけでもすごいよ!!」

 何でも、彼が今まで他の女の子を振るときに一番多く言った言葉は『お前とはもう無理だ』らしい。ごくまれに、それよりもっとひどい言葉を投げつけられることもあったらしいけれど、それは女の子の方の自業自得、という見方が強いそうだ。
 そんななかで、「悪ぃ」はとても珍しい、というか今まで聞かれない言葉だったらしく、跡部ファンの友達には驚かれ、羨まれた。

「どっちの方がましかなあ…」

 そりゃ謝ってもらった方でしょ、と友達は言うが、改めて考えてみるとどっちの方が辛かったろう、と思う。

「だって、お前とはもう無理だ、ってことは、何か私とあの人が合わない要素があって、それが乗り越えられないっていう判断をしたってだけでしょう?二人の間で起こったことじゃない。でも、悪い、他に好きなヤツが出来たって……私に関係ないところで、勝手に何かが進行しててその結果だけ知らされたみたいで、やだな。」
「そうなの?何かわけわかんなくなってきた…」
「私もわけわかんない。やっぱりまだ立ち直れてないのかも……」

 テーブルに突っ伏してしまった私の頭を、友達はもう一度撫でた。

 新しく出来た好きなコって、どんなコなんだろう。
 冷めてしまったコーヒーをすすりながら、ぼんやりと考える。

 友達が塾に行ってしまったので、視線を彷徨わせてウィンドウの向こう側の駅前の雑踏を見ていた。この中にいるのかなあなんて感傷に浸っていたら、また涙が出てくる。

「……あ」

 まだふっきれてないんだなあと、思った。目聡く彼の姿をみとめてしまったからだ。それだけではあきたらず、目線は後を追いかける。てっきり「新しい彼女」と一緒だと思っていた彼は、見たことのない…というよりありふれた学生服の男の子と一緒だった。
 遠目ではっきり見えないのがもどかしくて、つい立ち上がってしまった。隣のサラリーマンに訝しげな顔で見られたので、視線だけ外に向けたままで席を立った。
 幸い彼らを見失うこともなく、店の外に出る。
 道路際に立った彼らは迎えの車を待っているようだった。気づかれないように距離をとりながら必死で人の隙間を縫って観察しようとしている私は立派なストーカーじゃないかと思ったが、そのくらい神経が参ってるんだと自分に言い訳してじっと見つめる。ついでに耳もすまして、彼の声を探した。

「だからてめぇはなんで、そう下んねぇものにばっかり執着するんだ!」
「下らなくねえ!ボトルキャップとか期間逃したら手にはいんねえだろ!」
「それで虫歯になって無駄に部活休んでんじゃねえか!アホだろそれは!」

 途端耳に飛び込んできた彼の声は、別に耳を澄まさなくても聞こえるくらいの大音声だった。しかも無駄に、レベルが低い。
 あんな路上で、あれだけ整った顔をした男子が大声で叫んでいたら、いやでも目立つ。しかし周囲の目も気にせずにその罵声にも近い喧嘩腰の応酬は暫く続いた。
 周りにしてみれば意外だろうが、跡部の口が悪いのは別に今に始まったことではないから私は驚かなかった。
 が、問題は会話の内容で。

 ボトルキャップ、とか。コーラの甘味料がどうとか。

 おおよそ彼の普段とは違う次元で、口論が起こっている。対象になってるものは明らかにどうでもよさそうなのに、そのくせやめられないとばかりに売り言葉に買い言葉。
 とどめは、表情。
 何あの子どもっぽさは。こ馬鹿にしたように相手を笑ったり、本気で怒ってるとわかる表情で怒ったり。めまぐるしく変わる。

 人違いなんじゃないかと思えてくるくらいに、彼は違っていた。
 驚いてぐるぐるしている頭で、これ、似てるなあと思いあたる。
 そうだ、テニスをしているときの、彼は普段と違うんだと思ったんだと。
 思いあたった瞬間に、つまり、今一緒にいる彼が「他に好きなコ」なんだとわかってしまった。

 あの子は、違うのだ。私とも、他の女の子とも、いやそれどころじゃなくて彼を取り巻くどの人とも、違うのだ。

 相手に巻き込まれて、自分に巻き込んで。
 相手に関わるものぜんぶを意味不明でも好きで仕方ないから、相手にも自分の世界を好きだと思ってほしい。
 周りも何も関係なくなるくらいに。

 そういう子なんだ、跡部にとって。

 そう思ったら、今度は突然腹が立ってきた。
 つまり私は、あの子のせいで振られたのだということが実感としてわいてきたからだ。

 なんて羨ましい。
 私も、跡部にあんなふうに好かれたかった。多分、今まで跡部に振られてきた子がこれをみたら、みんなそう思うはずだ。
 でも、他のどんな子も今の私ほど腹を立てはしないだろう。
 私は運悪く、跡部の恋の被害者になってしまったのだから。

 だから多分、このくらいは許される。本当ならあのときこうしていればよかった。
「悪ぃ」と、言われたあのときに。
 そうしたら、きっとこんな風に引きずらずに終わらせることが出来たと思うのに。

 周りの人から見れば、次から次から出てくる涙を拭おうともしないまま走り出しそうな勢いで彼に向かって歩く私は、さぞかし奇妙にうつっただろう。

**

「……大丈夫かよ」

 駅前で力いっぱい張られた左頬を跡部が家に帰ってもまださすっているのが気になったのか、横に座った神尾がちらりと心配したような視線を投げてきた。お前が腕動かすからテレビに集中できないとか何とか、言い訳じみたことを言うのを聞き流す。

「大丈夫だぜ?まあ気にすんな……って言っても気になるって顔してるな、お前は」
「う」
「気にならねえ方がおかしいんだ、素直に言え」

 気になる、と顔に書いてあるのだ。
 あの女の子だれ、とか。殴られるようなことしたのか、とか。聞いていいのか悪いのか測りかねる疑問は、神尾の場合口より顔に先にあらわれる。明らかにテレビになど焦点が合っていない神尾の目は、跡部の方を見たい、と思いながらも無理矢理にそれを抑えているように見えた。

「名前は…別にいいな。うちの合唱部の伴奏者だ。ジュニアのピアノコンテストで毎年金賞取ってる。同じクラス。ああ選択も同じか。親の仕事でドイツにいたらしいからな、ドイツ語も堪能。顔とスタイルは見てのとおりまあまあ。性格、普段はおっとりしてるくせにピアノのことになると噛みついてくる。……で、一昨日切った女だ」
「……殴られるような振り方したのかよ」
「まあな」

 悪びれた風もないそぶりで跡部が言うと、神尾はあっという間に渋面になった。

「あのさ、そういうのやめた方がいいんじゃないのか?」
「何を」
「その…女の子が泣くようなことすんの、よくねぇよ」

 よくわかんねえけど、と、俯いてしまう。
 真意からそう言っているのだということは、確かめなくともわかる。そんな神尾を、女とつきあったこともないくせに、いや、多分ないからこそ、そういうことを平気で口にするのだと跡部は思うが、それを伝えたとしても馬鹿にすんなとか言って相手にされないのだろうと思ったのでやめておく。
 その代わり、俯いた神尾の顎をとって強引に唇をふさいだ。
 おおよそ脈絡のないその行動に目を白黒させる神尾を笑う。

「な、に…」
「お前にゃ女の気持ちなんて一生わかんねえな」
「は?」
「大体俺が殴られたの、誰の所為だと思ってやがる」
「……お前の所為だろ?お前が」
「ばーか」

 長いキスの間じゅう呼吸を我慢して赤くなった耳をつかむ。
 息を止めなくていいというアドバイスを聞く気はないらしい神尾を、いつか窒息死させるかもしれない、と思った。

「お前のせいだ」

 間近でそう吹き込むと、 その意味もわからずに神尾は、「何でオレのせいなんだよ」と小さく呟いた。

**


「可愛い?新しい恋人さん」

 英語で隣の席になったのをいいことに、頬杖をついたままで私は問い掛けてやった。横目で見た彼の顔は、憎たらしいことに大して驚きもしない。殴られても平気な顔だったのだからそのくらいどうってことないのだろう。当然そうなるってわかってたみたいに、平然として。

「可愛いぜ?」

 今も平気で、当たり前のことを言うみたいに言っている。
 私の嫌味にまた謝るようなことがあったらこの場で殴ってやろうと思っていたのに、そういうところはやはり『彼』だと思った。

 もう済んだこと、なんだろう。

 でも正直、私にとってももう、すんだこと、なのだ。

「最後のカノジョ、が私でよかったねぇ」
「人の面殴っといていえた義理か、あーん?」
「それで納得してもらえてよかった、ってことじゃない、感謝してよ」
「怖ぇな」

 当たり前よ、といった。

 ちらちらと、教室の中の女の子が何人もこちらに視線をむけているのを感じる。
 彼みたいな人が誰かひとりを選ぶって、なんて罪深いことなんだろう。
 でも選ばずにいられなかったのだ。
 誰を傷つけても。自分が傷ついても。

 それでも構わずに好きでいられるって、すごい。

 すんだこと、といいながら、やっぱりあの子が少し羨ましくなって私は、代わりに机の下で跡部の長い脚を蹴った。 

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


神尾を好きになるギリギリまで彼女がいて、好きだと思った日にすっぱり別れたとしたら
跡部カッコいいなあと思って書いてました。
女の子はどんな子でもよかったんですが、
個人的にベカミに限らずBLに出てくるような二人の邪魔をする女の子像はいただけないので
そんな子ばかりじゃないといいな、と。