「お湯の温度大丈夫ですか」
極力機械的な声を意識して言った。
愛想めいた問いかけは、跡部の好むところではない。
今も、肯定の代わりに沈黙を返すだけだった。
湯勢を弱めたシャワーで、きっちりと整えられた髪を少しずつ梳きながらくずしてゆく。
浴槽の外側に湯が落ちて、裸足の足元を濡らした。
舗ではないここは、跡部の家の浴室であり、今は神尾と跡部のほかに人もいない、奇妙な美容室だった。
そもそも神尾は、跡部が行きつけていた美容室に新人として配属されたかけだしの美容師だった。
新人の仕事といえばカットやパーマの前のシャンプーからと相場が決まっている。神尾もその例外ではなく、一年近く床に散らばった髪の掃除とシャンプーをして一日の仕事のほとんどを終えていた。
そんななかのある一日に、神尾が跡部の髪を洗う日が訪れた。
跡部が舗にとって「特別な」客であることは、新人の神尾にも割りにすぐ知れた。時にはシャンプーからカット、セットまでの全ての行程を店長がすることもあったし、そうでない日でも大抵は指名率の高い、実力のある美容師が担当していたからだ。
そんな中でシャンプーの担当が神尾に回ってきたのは何かの手違いに違いないと思うが、実情はよく分からない。
とにかく、そういう状況になったのだ。
もともとの性質の所為だろうが、そんな特別な客の前で神尾は、別に臆することは無かった。客が誰であろうと心がけるのは相手の快適さであると実直に思い込んでいる神尾にとって、ハラハラと見守る先輩美容師の視線もとくには気にかかるものでもない。
場を和ませようと話し掛ける言葉を悉く無視されるのは少しばかり癇に障ったが、それでもどうということはなかった。そういう客は別に珍しくなかった。
そうして滞りなく行程を終え、立ち上がり店長に案内されて奥の鏡の前へ向かった跡部は、神尾を振り返りもしなかった。
というのに、何故かそれ以後神尾は、跡部が訪れるたびにその髪を洗っている。
(…シャンプー担当って指名できたっけ……)
頭皮を撫ぜるようにシャンプーを馴染ませながら、神尾はぼんやり考え込んでいた。
舗で使っているのとは違うシャンプーの匂いをすいこむ。そう言えばシャンプー台に案内するときの跡部から、時折こんな匂いがしていた。
「かゆいところ、ないですか」
仕事でもないのだから別に問いかける必要はないのだが、慣れの所為なのか単なる惰性なのか、いつもの言葉をかけてしまう。返事が無いのは判っているのに。
オフの日に買い物がてら街を歩いていたら、偶然に顔を合わせた。
偶然、のはずだったのだが、「うちへ来い」と言った跡部の態度はまるで待ち合わせていたようであったし、それについていった神尾の方も同じだった。
風呂に入るから髪を洗えと言われたのに易々と応じたのも、考える間でもなく異常だ。
(…キレイな顔)
髪先は傷めないようにゆっくりと梳く。
跡部は表情もなく目を伏せて、彫りの深い目元に睫毛が影を落としていた。舗では顔にガーゼをかけているから見られない光景で、どうせなら普段直視することは出来ない、あの青い目も覗いてみたいと一瞬思った神尾は首を振った。
「跡部…さん、少し頭上げます」
呼びなれているはずの敬称が妙に喉の奥につっかかる。
項から頭の形を辿るように髪をかきあげた。支える右手には、しっかりと頭の重みが預けられている。
舗とちがって他に支えるものがないせいか、いつもより重く感じた。
「客じゃあねえんだ」
シャンプー流します、と言いかけたのを遮った唐突な跡部の言葉を理解できずに神尾は手を止めた。
「何…」
「客じゃねえ」
繰り返された囁きは柔らかく軽やかで、もっともなのだったが。
「…じゃあ、何なんだ、よ。跡部」
呼び捨てると、何かが自分の中でかちんとあわさったような感覚をおぼえる。
泡がはじけるように、突然理性が動き出した。
今、何をしているのか。
おかしい。
何でここに、いる。
跡部の髪を通らずに湯がなだれ落ちていく。
くつろげたシャツのボタンの間に、濡れた指が触れた。肌の上を水滴が滑っていって、身を竦める。跡部の腕を伝い落ちた水は、ズボンの膝にぱたぱたと小さな染みをつくった。
神尾の方を見ないままで跡部は、鎖骨から喉元へ、頤へ指先を正確に滑らせる。
「……最後まで終わったら、教えてやる」
ともすれば流れる湯の音にかき消されるような声で呟き、息を吐いた。その語尾と、頤を指先で跳ね上げられるのと、右手に跡部の頭の重みが戻るのとが、同時。
湯気の所為でなく火照る頬と裏腹に、魔法にかかったように手が動きはじめる。
だがおぼつかない手つきに少し緩んだ口元を、憎らしげに見つめた。
「……こういう冗談は恋人にでもやってくれよ」
恨み言は多分、泡と一緒に排水口へ流されてなかったことにされるのだろうと、予感できた。
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何やねん、とつっこまれると穴に入りたくなるベカミ美容師パラレル。
髪切りに行ったらまた跡部の髪を洗う神尾が書きたくなっただけです。
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