Happy Birthday to Yuki!

けんかのあとは

最近、神尾の様子がおかしいということが、不動峰中学の校舎裏にあつまるねこたちのもっぱらの心配ごとでありました。
神尾は、ねこたちのあいだでもとりわけ元気なねこです。毎日リズムに乗って走り回っているので、茶色い毛並みはいつも泥んこでした。
ところが、近頃その神尾の元気がないのです。
季節はもうすぐ春。冷たかった校舎のかげの土にも陽だまりができるようになり、ぎゅうとみんなで丸まっていなくとも昼寝だってできる頃です。うすい耳が冷たくなるからと、冬はあまりできない中庭でのかけっこができるようになる温かさは、神尾だって待ちわびていたはずなのです。
なのに、いまの神尾は見るからに元気がありません。
テニスコートからボールが転がってきてもぼんやりとして追いかけていかないし、かけっこをすれば水たまりにつっこんでしまう始末。
いつも神尾たちにごはんをくれる橘さんも、これには心配をして声をかけるのですが神尾は小さな頭を振るばかり。何も言おうとはしないのでした。

唯一、この初めての事態に動じていないのは神尾の親友のくろねこ、深司でした。といっても深司はあまり表情をかえないねこなので思うところあっても黙ってさえいればそれに気づかれることはなく、だからこそ神尾は深司にだけその事情をうちあけていたのでした。
ですが本当のところ深司だって心配をしていないわけではないのです。話を聞いてからはなおのこと様子が気になって、たまに神尾のそばに行ってはこう尋ねるのでした。

「まだ仲直り、してないの」

その問いに神尾は今のところ、悲しそうに頷くばかりです。
そのたびにあきれた、という言葉の代わり、深司は小さなため息をついてうずくまっている神尾の横に丸くなるのでした。

そんな、深司にしか神尾が話さない事情というのは、こういうものです。

二週間ほど前のこと。
神尾は、その少し前からよく遊びに行くようになった人の家で、ひどいけんかをしてしまったのです。跡部と言うその人はとてもお金持ちで、その家にあるものは野良育ちの神尾にとっては何でも珍しく、楽しげなのでした。
また跡部も、神尾が連れてくる冬の陽射しやふみしだく枯草の音をどうやら気に入ったらしく、たびたび訪れる神尾のために裏口のドアを開けておくのがいつしか習慣になっていたのでした。
跡部はお金持ちのお坊ちゃんらしく尊大で傲慢でしたが、気まぐれなのか神尾にはやさしく、神尾も跡部のえらそうな態度は気に入らないもののそんな時々見せるやさしさが、けっしてうそや演技でないことに気づいていました。
そんな、周り(とくに神尾の)が心配するよりもずっと仲の良かった二人がもう2週間も顔を合わせなくなるほどのけんかをしたのですから、神尾の落ち込みようがひどいのは仕方のないことなのかもしれません。
しかも、神尾はそのけんかの原因が自分にあることを知っていました。だからよけいに悲しくなって、耳もしゅんとたれてしまうのでした。

2週間前のその日、神尾は跡部の部屋にあった鏡を落として割ってしまったのです。同じ棚の上にあった跡部のラケットが見たくて棚に飛びついているうちに誤って倒してしまったのですが、これが跡部にとってとても大切なものだったらしく「がちゃん」という鏡の砕ける音が聞こえるなり跡部は「このバカねこ!」と神尾の毛が逆立つくらい怖い顔で怒鳴りつけてきたのでした。

「それで、あやまろうと思ったのにあやまりそこなって、なのに俺、また…」

神尾はなぜか跡部には思ったことを素直にいえない癖がありました。それでその日も、鏡の破片を拾い集めている跡部に、
「鏡なんかそんなに大事?破片集めたって元には戻せないんだぜ」
なんて、ひどい嫌味を言ってしまったのです。
跡部は顔を上げてしばらく神尾を見ていました。その目があんまりにもまっすぐに自分を見てくるので、神尾はしっぽに力を入れながらその長い沈黙を過ごしました。
そうして、跡部はしばらくすると何も言わずに部屋のドアを指差したのです。
それは、帰れ、という意味でした。
神尾は塀の上からおちたみたいに頭がくらくらとしましたが、そんな風にされるとまたいじけてしまって、結局謝ることもせずにそっぽをむいて飛び出てきてしまったのでした。

「わかってる、俺が悪いんだよ、でも」

けんかは、しょっちゅうしていたのです。けれどそういうときはいつだって、跡部が神尾のしっぽをひっぱったり、耳をクリップではさんだり、ちょっかいをだしてきてそれに神尾が怒ってけんかが始まるのでした。それはもしかするとけんかとは言わないかも知れません。だって、いつも怒っているのは神尾ばかり。跡部はいつだって笑いながら神尾のパンチやキックを受け止めていたのですから。
跡部はばかねこ呼ばわりしますが、神尾は別にそんなにバカではありません。途中から、跡部はちょっかいを出して自分が怒るのを面白がっているんだと神尾は気付いていました。けれど負けん気の強い性格と、何よりもそう言うけんかの後、疲れてぐったりしているからだや頭を跡部が優しくなでてくれる、その時間が好きなせいで毎度同じようなことを繰り返してしまうのでした。
けれど、こんなのは初めてです。
神尾はあんなに怒った跡部の顔を見たことがありませんでした。
ましてや、何も言わずに部屋を追い出されたことも。
だから、神尾だって鏡を割ってしまったことをきちんと謝って仲直りがしたいのですが、もしも跡部に嫌われていて家に入れてももらえなかったらと思うと、体がすくんで動けなくなってしまうのでした。

そんなこんなでまた一週間ほどがたった頃のこと。
その日は朝からどんよりとした曇り空でした。

「あれ、神尾は?」

いつも通り不動峰中学の裏庭に集まったねこたちは、神尾の姿がないのに気づいて一斉に深司の方を向きました。ですが深司はいかにもつまらなさそうに首を振ります。

「俺は神尾の世話係じゃないんだから…まったくいやになるなあ…」

ぼやき始めた深司を見てほかのねこたちはそれ以上聞くのをやめましたが、もちろん深司は神尾がどこへ行ったのかくらいの見当はついていました。
けして近くはないその道のりを思って、雨が降らないと良いけど、と深司は珍しく心配をして空を見上げました。

最近になって神尾は、ときどき跡部のうちに行くようになっていたのです。
といっても、庭に入って裏口が開いているかを確かめるのはやっぱり怖くて、長い長い塀の周りをぐるりとまわって戻ってくるのでした。ねこの神尾にとって飛び越えるなんてわけもなかった塀が、今はとても高く見えます。ぴったりとしまった正面の門の前に来るたびに、神尾は悲しくなってため息をつくのでした。

ぽつり。

ちょうど、神尾が裏口の格子門の前に来たときです。
アスファルトの地面にひとつ、黒いしみが出来ました。雨です。神尾は慌てて、門の狭い軒下に入りました。
神尾はねこですから、もちろん濡れるのが大嫌いです。通り雨なら良いな、というそんな神尾の願いをよそに、雨はどんどん強くなってくるのでした。門の前で小さくなり、雨をしのごうとするのですが軒先を伝ったしずくは容赦なく神尾の毛並みを濡らしました。
春が近いとはいえ雨はまだ冷たく寒く、神尾は震えながらうずくまり、肩越しに庭の方を振り返りました。
格子の間からは庭の向こう側にある家は見えません。そのことはまるで、もう庭にさえ自分が入ることは許されないと言われているようで、神尾は「あとべ」と小さく呟いてひざの間に冷たくなった鼻先をうずめました。
髪からおちた雫がひとつ、頬を伝って足の間におちました。



跡部が裏口の門の向こうに神尾がいることに気づいたのは、偶然のことではありませんでした。神尾がぷつりと来なくなってしまった3週間前から、跡部はほとんど毎日のように、時間があるときには2階の窓から裏口の周りの様子を覗っていたのです。
頻繁に神尾が来ていた頃、跡部は神尾が来る大体の時間を予想して裏口の扉を開けていました。神尾は自分が通った後きちんと裏口の扉を閉めてきましたから、扉が開け放たれている時間はとても短く、だからこそ使用人に見咎められることもなく神尾を迎え入れることが出来ていたのでした。ですが今はそれができません。来るのかどうかもわからない神尾を待って扉を開けていても、誰かがそれに気づいて閉じてしまうのでした。
それで仕方なく、神尾が自分のいる時に来たならその場で扉を開けてやろうと思って待ち構えていたというわけなのです。
ですから門の向こうに真っ黒いねこの姿が見えたとき、跡部はすぐに階下へと駆け下りていました。けれどてっきり裏口の前で待っていると思っていた神尾は、そこにはいませんでした。頭の上に手をかざして申し訳程度に雨を避けながら裏庭に出ると、さっき二階から見たままに神尾はまだ、門の外にうずくまっているのでした。
言葉にならない苛立ちを覚えた跡部は、雨に構わずに早足で裏庭を横切りました。
背後にたった跡部の気配に気づいて振り向いた神尾が見上げてきます。言葉を見つけられないらしい神尾は、驚いていると言うより不安げでした。
「来い」
跡部はそうとだけ言って門を開け、神尾の細い首ねっこをひっつかんで庭の中へ引き入れました。そのままずるずると引きずるようにもと来た道を引き返します。神尾は怯えているのか何かうめくような声をあげていましたが、それでも構わず裏口の扉の前まできてようやく足を止めました。

「ここで待ってろ」

濡れてしまった自分と、それ以上にすでにびしょ濡れの神尾をそのまま家に入れるわけにいかなかったのでタオルを取りに行くつもりでそう言ったのでした。ところが、神尾が弾かれたようにこう言ったのです。

「やだ、行くな!」

シャツの裾をつかんで、そう、必死な顔で。

「何」

何言ってやがる、とたしなめようとした跡部の語尾に重ねて、もう一度、「行くな」と言い、今度は背中にしがみついてきます。

(何なんだ一体…)

呆れて神尾に向き直ると、神尾は泣いているのでした。耳を垂らして、肩を震わせ、俯いていました。
神尾は普段、怒ることはあっても泣いたりしません。少なくとも、跡部はそんな神尾を初めて見たのでした。

「おい」

何しろ初めてのことですから、対処に困ってしまった跡部が声をかけると、神尾は顔を上げました。けれど跡部と視線が合うなりまたみるみるうちに涙が目にたまり、それを誤魔化すようにして神尾は踵を返して裏庭にまた走り出ようとしたのです。

「うにゃあ!」

跡部は、それを事故だったと主張するしかありません。逃げようとする神尾の、しっぽだけが逃げ遅れたのです。跡部が慌てて伸ばした手に捕まったのがそこだったのが、運が悪かったのでした。
しっぽをつかまれて見事にバランスを崩した神尾は、盛大な悲鳴とともに芝生に出来た水たまりに全身で倒れこんでしまったのです。

「……に……この……何しやがんだよばかぁ!」

半身を起こした神尾は勢いで怒鳴っていました。顔は泥水なんだか涙なんだかわからないものでぐちゃぐちゃです。けれど泣いていたことはもう頭の中からすっとんでいました。

「…てめぇがいきなり逃げようとするからだろうが、」
「だからってしっぽつかむな!しっぽ触られんの嫌だって何回も言ったじゃねえか!」
「知るか!そこしかつかむとこがなかったんだよ、大体てめぇの行動が最初から意味不明だから引き止めるしかなかったんだ!」
「だからってなあ!お前のせいでびしょびしょだろー!?」
「元から濡れてただろうが、ひとんちの軒先でぐずぐずと鬱陶しいんだよ!」
「な、なんだよ!見てたのかよ!この覗き…!」
「………あぁぁもういい!!」

このままだといつまでも終わらなさそうな不毛な言い争いを打ち切ったのは跡部でした。これはいつものことです。
有無を言わせず、まだしりもちをついたままの神尾を水たまりの底をさらうみたいにして跡部は、やすやすと肩の上に担ぎ上げました。

「!!?離せ、下ろせ!!」
「うるさい暴れるな!投げるぞ!」

半ばパニックを起こして暴れる神尾を支えるのは容易ではありませんでしたが、ここで落としてしまうほど跡部はうかつではありません。
そうして結局二人分の雨粒を撒きながらたどり着いた浴室に続く脱衣所で、ようやく投げ出すようにして神尾を床に下ろしたのでした。神尾もそこまで鈍くさくありませんから、きちんと足から着地して一瞬だけ安心した表情を浮かべ、けれどすぐに警戒したように跡部を睨んでくるのでした。

「てめぇのせいで俺まで泥だらけだろうが」
「だから誰のせいで転んだんだよ…」
「逃げなきゃ転ばせてねえ、おら、風呂入るぞ」

泥染みのついてしまったシャツを脱ぎ捨てて跡部は、浴室のドアを開けたのでした。



「……で、何だったんだ一体」

跡部はバスローブ一枚。神尾は跡部のTシャツ一枚。そんなかっこうでいても寒くないくらい、相変わらず跡部の部屋は暖かいのでした。
偉そうにソファにふんぞり返っている跡部を床にすわった神尾は見上げて、ばつが悪そうに長い毛足の絨毯をいじっていました。

「3週間も来ねぇで。来たと思ったら門の前で」

無理矢理ではありましたが風呂に入れられて全身を洗われ、今までは入ったこともなかった浴槽にまでつけられて冷えていた体はすっかりあたたまり、それにともなって気分も落ち着いてはきていたものの、棚の上からなくなってしまった鏡のことを考えると、やっぱり神尾はまた、憂鬱になってしまうのでした。
だいたい、あんな、嫌われるようなことをしておいて、それでも「行くな」なんて。そんなムシのいいことをよく言えたものだと、さっきの自分の言動を思い起こすとさらに情けない気分になっていきます。

「泣こうが喚こうが勝手だけどな…、その前に説明しろ。わけがわかんねえ」

神尾が鼻をすすっているのを聞いて、跡部は呆れたようにため息をつきました。
その様子は怒っているようには見えなかったので、今なら謝れるかも、とやっと決意した神尾は顔を上げました。
ところが。

「にゃっ!?」

神尾が声をあげてしまったのも無理はありません。跡部は唐突に、神尾のわきの下に手を入れて自分の膝の上に抱き上げたのでした。

「な、なにすんだよぅ……」

また謝るタイミングを逃してしまった神尾の丸いあたまを、跡部の手が包むようにして撫でました。耳のうしろを撫ぜるそれは、いつもけんかのあとに跡部がするのと同じ、優しいしぐさでした。

「お前はわけがわかんねぇんだよ。拗ねる時も、泣く時も。人間の俺様にもわかるようにやれ」

そんなこと言ったって、神尾はねこなのです。神尾には神尾の考えていることがあって、哀しくなったり、涙が出たりするのですから、それをいちいち跡部に合わせて表現することなんて出来ません。ですが、今はそんなことで言い争いたいのではないのでした。

「俺…鏡、割っちまって…」
「鏡?あぁ…あの時のか」
「だからその…謝ろうとしたんだけど、跡部すっげぇ怒るし…、あんな顔見たことなかったから、びっくりして、謝れなくて、おまけにひどいこと言ったし、跡部は帰れって言うし、もう嫌われたんだと思っ……」

いちど堰を切ってしまうと止まらなくなった言葉が、涙と一緒になってぼろぼろと零れ落ちます。
そんな神尾がしゃくりあげて言葉をつまらせるのを待っていたみたいに、跡部は神尾の背中をさすりながら言いました。

「お前、そんなことで来なくなってたのか」
「でも、跡部帰れって…!」
「だから、あれは」

涙でゆがんだ視界の向こう側で、跡部は呆れ顔で、けれど今まで見たこともないくらいに柔らかく笑っていました。

「ガラスの破片でお前が怪我するんじゃねえかと思っただけだ」
「でも、鏡、大事なんじゃないのかよ、俺なんかより」
「バカが足に怪我でもして走れなくなったらまたにゃあにゃあ泣くんだろうが」
「だって、じゃああんな怒鳴んなくても」
「……うるせぇ」

怒鳴るくらいに慌てたのだと。鋭くとがった鏡の破片で、神尾が取り返しのつかないような怪我をしたらどうしようとあの一瞬本気で思ったなどと。
そんな跡部の気持ちを、神尾は知る由もないのでした。

「……あのさ、」

それっきり黙りこくってしまった跡部の顔を下から覗き込みました。背中には跡部の温かい手が触れていて、大丈夫、嫌われてなんかいなかったんだと教えてくれました。

「……ごめん、な」

やっと言えた言葉と一緒に、神尾は跡部の頬にちゅ、とひとつキスをしたのでした。



緊張の糸が切れたのか、神尾はその後あっさりと眠りこんでしまいました。くったりと柔らかい体を預け、しっぽの先まで安心した様子でいる神尾を、跡部は半ばいとおしく、半ば憎らしく思いながら抱いていました。
がらにもなく、さっき神尾にくちづけられた頬が熱いのです。

「……どこで覚えてきやがったんだ、こいつ」

けんかのあとの、キスだなんて。
そんな恋人みたいな、なかなおりの仕方を。

神尾を起こさないようにソファに寝かせてやり、さっき神尾が跡部にしたように頬に唇をよせかけ、思いなおして跡部はその寸前で方向を変えました。
ふにゃ、と幸せそうな寝言ともつかない声をこぼした神尾のくちびるに、寝息を掬いとるようにそっと、跡部は自分のそれを重ねたのでした。


おしまい。

雪来さんへ。
お誕生日おめでとうございます♪