蝶の見る夢(日が長いな……) ようやく夕暮れの色を含み始めた日の光が、鬱蒼とした木々の合間を抜け不均一なガラスの窓を抜け、他に人の気配のない廊下に元親の影を落とした。 リノリウムの床材が、剥げて欠けている。スリッパの裏がざりざりと音を立てるのはそのせいかと元親は苦笑した。よくよく見れば廊下の隅には埃と一緒に砂も溜まっている。 古い洋風建築の館は、街の中心地から少し離れた場所にある。家屋だったものを改築して作った資料館である。中にあるのは、紙と蝶ばかりの標本。 以前は少しばかりの料金を取って人に公開していたらしいが、時代は移ろい訪れる者がなくなり、廃業した。 そしてちょうどその頃に、父と兄を立て続けに亡くしてこの館の持ち主となったのが、元親が今訪ねてきた男である。 「毛利、いるか?」 突き当たり一つ手前の部屋の前で呼ばわる。返事はないが、いるのはわかっているので遠慮なく扉を開けた。今どき珍しい木枠の引き戸は、段々歪んできて立て付けが悪くなっている。力まかせに開けばゆるく嵌った磨りガラスが不穏な音を立てた。 廊下は立っているだけで汗ばむほどだったのを、この部屋はしんと冷えている。表の木々が常にかげりを作り、風の通る方向に窓が造られているからだ。もっともその窓は、木々と同じように並び立つ標本棚に阻まれて元親からはまだ見えない。 標本棚にはとりどりの蝶が並べられている。ラベルは古く、紙が焼けて色を変えているものもあるが、蝶の姿はどれも今しがたまで空を舞っていたかのようだ。 ――と。 久々に見る、自然と人の手の合間に翅を広げる美しさにしばし見とれていた元親の耳に、何かが倒れる鈍い音が飛び込んだ。続いてそれとは正反対の、何かが割れて粉々になる鋭い音。 何事かと慌てて棚の間を抜けると、開けた視界の正面にあるはずの人の姿がない。歩を進め、部屋のほとんどを占めている重い木の卓の下へ目をやるとそこに、翅は閉じたままで横たわる、佳人の躰があった。 ふるる、ふるると、扇風機の羽が廻る音がする。 元就が目を覚ますとそこは、先ほどまで作業していた部屋の隣、普段はあまり出入りをしない資料部屋の革張りのソファの上だった。 枕の代わりにされていた埃っぽいクッションから頭を上げると、ちょうど隣から箒とちりとりを提げて入ってきた元親と目が合った。 「おう、起きたな」 ちりとりの中身をゴミ袋に空けて、元親が近づいてくる。 身を起こすと、額の上に乗っていたタオルが膝へ落ち、元就は自分の置かれた状況を理解した。 「あんたなぁ。水くらい飲めよ」 「……迂闊」 目覚めるなり説教を垂れられても返す言葉がない。扉が開いた音で来客に気づき、立ち上がったところで眩暈に襲われたのだった。しばらくはしゃがみこむだけで踏みとどまっていたのだが健闘むなしく倒れこみ、薄れる意識の向こうに標本箱のガラスが割れる音を聞いた。 倒れた元就をこちらの部屋へ運んできたのはまず間違いなく元親だ。デリケートな標本を剥き出しにした部屋で扇風機を回すわけにはいかないから、こちらの部屋へ抱えてきたのだろう。卓を挟んで向こうの椅子に置かれた扇風機は、この館の持ち主である元就すら見覚えのない年代ものだった。どこから持ち出してきたのか。 差し出される麦茶のペットボトルを素直に受け取り、ぬるいそれで唇を濡らすうちに元親が隣に座った。古いソファのスプリングはそれだけで軋む。 「落ちた標本はどうなった」 「それだ。まずは自分の体のことを気にしろよ、どうせさっきも標本の整理に夢中になって丸一日飲まず喰わずとかそういうんだろう」 「……」 図星かよ、と呆れ笑いで後ろ頭を叩かれる。憮然として睨みつけても元親は動じない。彼に利があることくらい、元就にも判っている。 「いくつか壊れてたぞ。別の箱に移して置いてはあるが」 一応答えながら、元親の手がさりげなく元就の手首を掴んだ。今すぐ補修をするなどと言わせないと、片目が言っている。 「……いつ戻ってきたのだ」 隣に戻るのを諦めたことを伝える代わり、尋ねる。 元親が日本を離れたのは二月ほど前だった。 計画性があるのかないのか、元親は唐突に標本採集にいく、と言い出してはふらりと姿を消す。そう言って出て行く大方は国外で、携帯やパソコンはおろか、電気があるかどうかもわからない場所に交じっては、また連絡も遣さずに戻ってくる。 加えてどこへ行ってきたのだと問いを継げば、先にそちらへ「南米」と何ともおおまかな返答があった。 「戻ってきたのは一週間ほど前か?時差ボケがひどくてよ、ほとんど寝てたから今日まで研究室には顔出してねえ」 「……半分はサボり癖だろう」 「で、だ」 元就の厭味など聞こえないふりで、元親が立ち上がる。少し待っていろと言って再び隣へ行った元親が、今度手に提げてきたのは掌ほどの函だった。 「土産。今朝届いたんであんたにやろうと思って大学行ったら、こっちだっつうから」 手渡された函の中に収まるのは、淡い燐光を弾く青い翅の蝶だ。いささか乱暴な人工の翼で海を渡ってきたというのに翅の輝きは喪われておらず、虫ピンをはずせば飛び立ちそうな姿である。 「……見事だな」 「ん、おお」 元親は展翅が上手い。翅はもちろんのこと、頭や腹や、触覚の一本までもを蝶が生きていたときの様をそのままに留めおく。まるでひとつの芸術、とまで言ってしまうと世辞が過ぎるか。 人の我侭勝手で理不尽に命を終わらされるのだからせめても感謝と慈しみを以って翅を展いてやるのだと、いつか元親は言った。それこそ勝手な感傷だと元就は思ったが、自分ではこの小さな命を奪うことのない場所にいる者に口を出す権利はない。 元就の仕事はこうして元親が持ち帰る蝶の同定や、この建物の中に詰め込まれた名無しの標本の整理であり、生きた姿で異国の蝶を目にする機会はそれほどなかった。 「同定しねえのか?」 しばらく、わたされた蝶をためつすがめつ眺めていた元就が傍の卓へそれを置くと、落胆というよりも驚きの声が降ってくる。 「仕事の邪魔をしにきたのだろう」 先ほど掴まれた手首はすでに自由を取り戻しているが、それよりも強く元就を縫いとめ放さないものがある。それこそ、虫ピンで体の心央を貫かれているかのように。 その存在を指してやれば、元親が柄にもなく照れてたじろいだ。 「そ、れは」 お誘いか、と伸びてくる手を拒まないことで元就が応じると、間をあけずに唇が塞がれた。膝の上に遊ばせていた手を元親の背に回せば、距離がなくなり体温が触れあう。 そういえばふた月ぶりなのだったと今更思い出し、早くも歯の間を割った舌の柔らかな起伏を確かめる。鼻先をくすぐる匂いが、しばし忘れていた欲を灯した。 体を傾けられるのに逆らわず先ほど身を起こしたばかりのクッションを頭に二人して倒れると、途端にもうもうと埃が立つ。つい咳き込んでそれを払う元就を、息のかかる間近で元親が笑った。 「廊下も表もえらいことになってたぜ、手入れしろよ」 笑いながら、シャツの上から体の線を辿る愛撫の手を休めることはない。これからを期待して震える体をよそに、埃と、この部屋まで入り込んでくる草いきれが元就の理性をつなぎとめた。 夏草がその背を伸ばし始め、門から建物へ入る道が獣道になっているのは元就も知っている。朝ここへ来たときに、たまたま通りかかった登校中の小学生が化け物屋敷の探検をするとかしないとか、門の前で話しているのを散らしたばかりだ。 「ここへ来るのは久方ぶりゆえ。確かに表は何とかせねばならぬな」 後で手伝えと言う元就に、元親は嫌そうに首を振った。 「この時期の草なんか二人で抜いたって無駄だろ。明日にはまた生えてきてるぜ」 「……ならばとりあえず見逃しておけ」 軽口を叩き合っている間に、舞い上がっていた埃は収まっている。 「埃まみれになるな……」 さて続きをとベルトに伸ばされた手を押し留めることなく、愚痴のみをこぼすと元親がまた笑った。 「水は通ってるんだからあとで浴びてけばいいだろ。裏に風呂もあったよな」 「あるにはあるが……蚊の餌食になりたいなら止めはせん」 浴槽に残った水にぼうふらがわいているのでも想像したか(それは実際には元就が見た光景なのだが)、妙なうめき声を上げた元親がさすがに手を止める。が、代わりに押し倒されたばかりの体を抱え上げられ、膝の上へ導かれた。 「この方がましだろ」 腿のつけ根に触れた確かな昂ぶりに過剰に身を震わせたことを恥じるまもなく、弛んだベルトの間から入り込んだ手が下着の中をまさぐる。 が、肩へ縋って顔を隠そうとしたとき目の端に閃いた影に、元就は身を硬くした。 「……だめだ、」 声が震える。 「何だよ、今更」 押し返して離そうとした体を無理やりに留められて、激しく身をよじる。その反抗を羞恥としか取っていなかった元親が、それでようやく異変に気づいた。簡潔に只一言の言葉で伝えられなかったことを悔いる暇すら与えられず、身のうちから溢れ出そうになるざわめきを必死の思いで押し殺す。 だがそれも長くはもちそうになかった。 「離れよ、長曾我部――ッ」 搾り出した言葉は尾が切実な悲鳴になり、それを最後に元就は、足元から波に浚われた。 羽音が聴こえる。いや、羽音しか聴こえない。 それまで確かに意識がなかったのに、元親はその場に裸足で立っていた。 ふるふると鳴るのは、部屋にあった扇風機の羽ではない。無数の、蝶の翅だ。足元を地平線まで埋め尽くす七色の蝶の翅が、この夢への闖入者を拒むように元親の素足を叩いている。 「……巻き込まれちまったな」 また泣かれる、と頭を抱えた。現実には泣かれるのではなく殴られるのだが、この場合は泣いているのでも大して変わらない。 「どこ行きやがった」 元親の悪態に反応して、蝶の海が細波立つ。 帰れ。出てゆけ。邪魔をするな。 かすかな羽音が集まりうねり、総出で言葉を作る。 「聞かねぇよ」 屈せず前へ進むのに、それらを踏みつけぬよう底を掬い上げるように行くのはせめてもの情けだ。この忌々しい蝶も、この夢の主の一部であるから。 そんな元親の心遣いをあざ笑うように、底は段々と深くなってゆく。それでもすり足で進めばそのたびに舞う蝶が頬を打った。 「……いた」 せいぜい足首までだった蝶が腰辺りまでを埋め尽くしたところで、元親はやっと探し人の居所を見つけた。 目で捉えられる一角に、くりぬいたように一帖ほど、蝶のいない空間がある。その真ん中に、元就がぽつんと立っていた。 (立ってやがるな、) 奇妙な安堵を覚えて、頭に乗ってきた透けた橙色の蝶を払い落とす。落ちて混じるとすぐにどれだったのかわからなくなるそれらは、標本箱のどこにもいない、ただのまぼろしだ。だがこんなものに埋もれて座っていられたら、見つけるのも呼びかけるのも一苦労だ。 「元就!」 呼ばわると、抗議するように蝶が羽ばたいた。一枚一枚は小さなそれが、集まれば元親の固い質の髪すら後ろへ吹きさらう。 風雨の森の真ん中に立つよりもすさまじい音の中でも、元就は確かに元親を振り向いた。 「帰るぞ!」 今度は真正面から容赦なくぶつかってくる蝶を掻き分け掻き分け、棒のように佇む男のもとを目指す。 「元親、」 蝶の翅に片目を叩かれて思わず目をつぶったところで、思うより近くでその声を聞いた。 そろりと目を開ければ、見下ろすだけですむほど近くに元就が立っている。姿を見つけてからそんなに進んだか、いや進んでいない、では、これは。 見遣れば、視界の奥に丁度元就の体くらいの細い途が出来ている。元就の足元では、踏みにじられた蝶があがくように翅を揺らしていた。 「歩いてきたのか?」 「……帰るのだろう」 半袖のシャツから伸びた白い腕がのび男にしては細い指が、涙を滲ませた元親の目の縁を辿る。そこから拭い取った燐粉を軽く吹いて払い、ついと元親の後ろを指した。 「こちらか、」 「多分、な」 下された指を捉えて絡めると、逃げを打つ蝶が一斉に飛び立った。 「……だから離れろと言ったものを……」 「単に間に合わなかったんだよ」 「逃げるどころか引き寄せてどうする」 「これは、つい」 苦しい、と元就がもがくので、今は素直に離してやる。 少しの間、夢の残滓を振り払うように頭を振っていたが、その前に何をしていたのかにはたと思い至って乱された着衣を正した。文句はないな、と僅かに朱を刷いた目元が言っている。 足の間のものはすっかり萎えてしまっていたので、元親もどうとは言わなかった。 ふと、目の前を黒い蝶がよぎってゆく。瞬間身を竦めるが、それはどうやら本物の蝶で、開け放った窓から迷い込んできたクロアゲハだ。扇風機の起こす風に頼りなく羽ばたいた蝶はあまり上手とは言えない様で卓の上に降り立ち、汗をかいたペットボトルが作った小さな水溜りを吸おうとする。が、元親がその閉じた翅を指先でつまんだ。 「無体をするな」 哀れっぽく脚をばたつかせる蝶を見て、元就が眉を顰める。 「やだね、あんたこいつの所為で飲み込まれただろう」 「……」 否定しないところを見るとその通りらしかったが、それでも元就は放してやれ、という。 元親も別にたまたま迷い込んだだけの蝶の翅を引きちぎるような無茶をするつもりはなく、ソファから立ち上がると窓に寄り、外に向かって蝶を投げた。紙のようにひらめいた黒い翅は、中空でバランスを取り戻してふらふらと木々の影へと馴染んで消える。 「あの蝶に罪はないのだがな」 投げた腕に、久々の逢瀬を邪魔された鬱憤が少しも篭っていなかったとは言えない。目敏くそれに気づいた元就が、若干の自嘲を含んだ口調で言った。 「久々に派手だったな」 目裏に描く、七色の蝶の海は現実に戻ってくると空恐ろしい。というよりも、あそこまで集まられると気色が悪い。 「……南米だなどと言うから、オオカバマダラを想像した」 「学者の端くれとは思えん単純さだな、」 「うるさい」 自分でもそう思うのか、不機嫌さを滲ませる元就を、元親は背から抱きしめる。剥き出しの腕が鳥肌立っているのは、無数の蝶への生理的な恐れからか。 「あんなんに攫われたんじゃたまんねえよ」 元就が生きた蝶と向き合わない理由が、この蝶のまぼろしだった。 凡そ非科学的で口に出せば虚言癖を疑われそうだが、元就は体の中にあの途方もないまぼろしを飼っている。いつから、なぜそうなったのかは知れない。が、生きた蝶が舞う姿にそのまぼろしは引き出され、元就と、その側にいる者を見境なく夢へ引きずり込む。 「だが今日は、戻る方法がわかった」 「そういえばあんた、立ってたな。自分で俺のところまで来たし」 「……戻りたいと、思ったゆえか」 「……」 何故、と問いかけて元親は口をつぐんだ。元就は今やすっぽりと腕に収まり、元親の胸に頭を預けてさえいる。 問えば機嫌を損ねながらも答えてはくれるのだろうがそれよりも、わかりきっている答えを想像しながらこのまましばらく抱いている方がいい。 「どこへもゆかぬ、まだ、」 お前がいれば、と言ってもらえるのは嬉しいのだが、まだではなく、ずっとと言ってほしかった。 |