往時より来て
初めて元就から電話があったと思ったら、頼みごとという名の使い走りだった。
「まあ、予想はしてたけどな……」 発駅の駅前のネットカフェで印刷した地図を手に降り立った元親は呟き、がっくりと肩を落とした。 無人改札を抜けた途端に目の前に広がるのはのどかな田園風景である。申し訳程度のロータリーには車の一つもない。「タクシーのご用命はXXへ」の表示のある看板は古ぼけて、ペンキがはげている。書いてある電話番号へかければすぐ車がくるかどうかも怪しい。もっとも来たとして持ち合わせが乏しいので頼む気にもならないのだが。 バスは昼間、2時間に1本。しかも出たばかりだった。 結局選択肢など初めから残されておらず、県道何号の標示も空々しい畦道を地図の指す方へ歩き始める。 爽やかな空の青を背景に、ぴんよろーと暢気な声で鳶が鳴く。天高く馬肥ゆる秋……せめて馬がいれば楽なのに。茶屋があれば休めるのに。いや頭の中で時間をさかのぼる以前に、コンビニのひとつもない。 見渡す限りには刈り入れの終わった田んぼと、その合間にぽつりぽつりとある民家ばかり。 仕方がないので、片手に持ったままにしていたファーストフード店のドリンクのカップから解けた氷を啜った。 「たどり着けっかなー……」 駅と道の方向を頼りにそろそろと歩いてはみているものの、ランドマークが全くないので地図もぺったりと無愛想だ。 これはあんまりだと元就に抗議しようにも、かけた電話は繋がらない。真昼間のことだ。方正な学生を装っている元就は、しっかり携帯の電源を切って授業に臨んでいるのだろう。テレビドラマでしか見たことのない学校風景に場違いに鮮やかな色を落す姿を思い描くとどうにも寒気がして、何度目かのため息をついた。 『宝探し』だと、そう元就は言った。得意だろう、とも。 探し物は、元就のかつての財産である。いつのものであるかは聞きそびれた。さすがに最も潤っていた頃――元就が人であった頃はこんなことになるとは微塵も思っていなかったはずなので違うだろうが、自分が「そういう」生き物だと理解したあと、こうして貯えを残していたようである。余人に見つけられても損害の少ないように、あちこちに少しずつ埋めているあたり周到である。 元親は電話口で地図ぐらい預かっといてやるのによ、と零したが、貴様に渡すと使い込むだろうと蹴られた。返す言葉もなかったので、大人しく探しにきた元親である。 元就が送ってきたメールには、よく見るネット上のマップの他に手書きの地図をスキャンしたものが添付されていた。郊外のせいでオンラインのマップでは詳細に表示できなかったものを、元就が補足のために書いたようだ。 どこぞの寺の裏山に、地図上では赤いバツ印が入っている。 記憶を頼りに描かれた地図は当然不親切で、今はあるのかどうかもわからない目印からのおおよその距離が走り書きされている。けれど何となく、こういう地図を見ると胸が騒いだ。 「得意だろう」と元就は言ったが、得意というより好きなのだ。あるかもしれないし、ないかもしれない。そもそも何があるのかもわからないものを探し出して、手に入れるような作業が。 そんなだから子どもの姿をした男に小僧扱いされるわけだが、性分なのだからと諦めている。何百年生きようが、土台にあるのはどこまでもあの、海を渡り国を駆けた記憶なのだから不思議なものである。 それを知ってのことか、元就は「そこ」に何があるのかを明かさないままに元親を送り出した。手玉に取られている気になるのが、少し癪に触る。 「川よりは手前か……」 顔を上げた先に、堤が盛り上がっているのを見とめて呟き、元親は農道を脇へ折れた。地図上の寺を示すような案内板は当然なく、相変わらず人影もない。ただ人に見かけられても怪訝な顔で見られるような気がするので、それで別にいいかという気もする。 と、寺らしき建物を探す元親の視界に、つい、と一本の糸が舞った。あ、と声を上げるよりも先に空を舞って消える。 ならばと見えぬ左目へ意識をやれば、儚いまでの銀の煌きがゆったりと軌跡を描き、瞼の外の光景に重なって、元親を導く。 蜘蛛の子の雪迎えにも似たそれを、元親は見知っていた。 「何なんだろうな」 それとの付き合いは長いが、見知っているだけで、何であるのかは知れない。わかっているのはそれが道案内であることぐらいだ。そして糸を手繰った先にはいつも、あの男の面影があった。 何故居所がわかるのだという元就の問いに対する、何となくという元親の答えは若干の嘘を含んでいる。 糸は見たいと思って見えるものでもなく何故見えるのかいつ見えるのかも不確かではあるものの、幾度かの経験で導かれる先に元就がいることは間違いないといえたし、「今の」元就を見つけられたのはこの糸の導きに従ってのことだった。それでもその存在は他人に伝えるには曖昧が過ぎたし、確たる理由を欲しがる男にこんな己にしか見えないものの存在を伝えたところで何の足しにもならないだろうと思い、元親は元就にこの存在を話したことはなかった。 せめて小指からつながる赤い糸のようにあからさまならば伝える気にもなったかもしれない。あからさま過ぎてふざけるなと殴られるだろうが、話の種程度にはなる。 それはともかく、どうやら糸は今、元親を目標のものへ導こうとしているものらしい。 糸は瞼を落とせば見えてくるのだが、不具である片目がその代わりをする。触れることなく元親の体に纏わりついた糸は、向かう先へと伸びていた。 糸と周囲の景色の両方を見ようとすれば、体が平衡を失いかける。が、いい加減付き合いも長くなったものである。細い畦道から落ちないように歩く元親の脳裏には、初めてこれの存在を確かめたときの記憶が去来していた。 そのとき元就はまだ七つばかりの幼子だった。背など、元親の腰辺りまでしかなかった。元就の幼い頃の姿など当然知らなかったはずの元親が、それでも彼を見出したとき、元親は自分を導くものの意味を、つながる先を知った。今はそれすら、初めから仕組まれていたもののように思う。 そのとき元親の前へぴんと張られたものはより合わされたように太く、今見たような儚げな姿とは程遠く。項に引き攣れるような痛みがあって、思わず手をやった元親の指にそれは触れたのだった。振り払おうとする手に引きちぎられてなお糸は強く腕へ絡み、何者かが手繰り寄せているかのごとく、元親を雑踏へと導いた。 そういえば、以前もどこぞから連れてきたかと蜘蛛の糸を払った、と。元親は急激に寄せてくる記憶の波に漂いながらその導きに従った。 そして、彩を見失ったざわめきと歩む人々の足に巻き上げられた砂埃、それらがふつと切れた先に、幼い姿を見つけたのだ。 折節、元親は思い出す。呆然と佇む見知らぬ子どもに、だがそれが間違いなく元就であることを確信し、彼以外の何をも失ったと絶望したそのときを。
はた、と歩みを止めた。畦の奥に見えていた小山が、気づけば目の前にあった。糸は左目の前でゆらゆらと揺れ、木々に分け入りその影に消えている。 「……私有地、だよなあ」 追憶に沈んでいた己を誤魔化して呟き、辺りをうかがう。やはり人影はない。県道から外れたせいで却ってその気配から離れてしまったようだ。 もはや用を終えている地図のとおり、寺は確かにあった。あるにはあるがどうやら住むものはないらしく、手入れすらされずに荒れ果てている。 一応周りを警戒してみたものの、さしたる逡巡もなく元親は山へ足を踏み入れた。もし見咎められたらなんと答えようか、タイムカプセルを埋めたとでも言うか。嘘ではないのだし。 足を踏み入れた木々の間は秋の空気も手伝ってひやりと冷え、湿気を含んだ落葉に足が沈む。むろん道などない場所を歩いているので、滑らぬように足元へ注意を払う。街で人にまぎれて生きていると忘れてしまいがちだが、こちらの方が足にはなじんだ。 糸の厄介なところは、手繰ろうとするとふつりと消えてしまうところである。ものいいたげに人の前に現れるくせ、こちら側から望もうとすればするりと指の間から逃げる。 その感触に覚えがあるような気はもうずっと以前からしているが、本人は知らないのだから言っても無駄だ。嫌味にもならない。 時折立ち止まって糸の伸びる方向と元就の描いた地図とを見比べながら歩くこと暫し。感覚からして山の中腹辺りに差し掛かったところで、糸の先が消えた。 消えた先には、周囲の木々より一回り二回り太い古木が聳えている。元就の地図にはそこに祠があるとかかれ、その正面に埋めたと添え書きがされている。が、木の周りを回っても祠はない。さては風雨に耐えかねて朽ちたかと、せめて浅く埋まっていることを祈りながら背のサックからシャベルを取り出す。そして適当にあたりをつけてしゃがみこんだとき、ふいと頬を冷えた風が撫でた。 顔を上げると、ちょうどしゃがみこんだ目の前にうろがある。ここで冷えた空気かと納得し、再び視線を地面へ戻しかける。が、その途中で視界に過ぎったものに、元親は目を見開いた。 祠である。 ほの暗く冷たい闇の先で、苔むし朽ちかかった姿で佇む。樹木の側のものが年月を経て取り込まれた様など別に珍しい光景でもないはずなのに、目を奪われる。 それがなぜかと考えて、それが時を経たものであることを知らされるからだと思った。 元就は、かつてこれがまだうろの外にあったときにここを訪れたのだ。 そう思うと、何か囚われたように体が動かなかった。 ぞっとした。長い年月をかけて、そう自分で思った光景よりもなお永く、自分たちが在りつづけていることに。 吸い寄せられるように呆然と暗いうろの中を見つめていた元親は、突如鳴り響いた携帯電話の着信音に縮み上がった。 取り落としたシャベルが足に当たって我に返り、慌ててジーンズのポケットから携帯を引きずり出す。まるで元親の困惑を察知したかのように、外部ディスプレイには元就の名があった。 「見つけたか」 通話の相手を確認もせずに開口一番元就は言う。 「いや、まだ……、場所はわかったんで、掘り出すとこだ」 人の気もしらず、電話の向こうで「遅い」と毒づく声が聞こえた。 「祠が木の幹に取り込まれて見えなかったんだよ、それで」 言い訳かと言われるのを承知で伝えると、電話口の男はしばし押し黙り、後に続くため息の後で「かけ直す」とだけ言って一方的に電話を切った。 告げる声にかすかな動揺があった気がした。が、どちらかといえば元親の方がまだ先ほどの動揺を引きずっており、ここ圏外じゃなかったんだななどと何の関係もないことに先に思考がめぐる時点で、あてにならない。単に元親が成果を上げていないから改めるというだけの行動にも思えるしその方が得心がいく。 それでも、僅かに期待してしまうのは、願望からかもしれなかった。今目の前にある事実に、同じ思いを抱いてほしいという。 笑い種だと思う。今まで一度とて、あの男が元親と同じことで思い悩む様を見たことがあったか。 元親が沈めば下らぬと笑うのが元就であり、元就が陰に入り込む理由を理解できないのが元親ではなかったか。 けれど、もはや己の苦しみをぶつけて縋る相手が一人しかいないのも事実で――。 いい加減にしろと己を叱咤し、元親は先ほど取り落としたシャベルを拾い上げて土へ突き立てた。 柔らかい土の下の石に、先端が当たる。力任せに掘り起こし、石を掬い上げ、掘り進んだ。 木の根を避け、固い土を削って穴を拡げる間は思考が止まる。そうして何も考えずにいるうちに、石でも木の根でもない感触が伝わった。 慎重に土を除ければ、古い紙に包まれた、漆塗りの箱が現れた。手で掘り出すと紙はぼろぼろと崩れ、それに守られていた黒い表面が永の年月に朽ちることなくすらりと木漏れ日を弾いた。 もとは文箱か何かだろうか。 開けるなとは言われていないので、弱ってしまっている麻の紐を解いて中を確かめる。 二、三重に紙で巻かれた塊がふたつ。 取り上げると、片方はひどく軽い。銭か何かが入っているものと思っていた元親はそれが意外で、包みを破らぬように解いてみる。と、いやに可愛らしい、福良雀の柄のハギレで作った袋が入っている。さらにその袋の紐を解いて覗き込み。見えたものにまず、元親は目を丸くし、それから記憶の糸を辿ってみて、つい破顔した。 入っていたのは風車である。子どもの玩具であるそれの意味を、元親は都合よく覚えていた。 (結局遺してんじゃねえか) まさに、元親が先ほど思い起こしていたそのときだ。年端のいかぬ子どもだった元就は、『親』に持たされたといういくつかの遊び道具を持ったままで元親と逃げた。 雑踏で出会ったとき、子どもの姿に相応しいはずの紅く華奢なつくりの風車が、彼が元就であると知った途端に奇妙に浮き上がって見えたことが、再び思い出される。 元親と隠れ暮らすようになって元就は、そのとき持っていたものをさっさと手放そうとした。詳しくは訊かなかったがそれなりに豊かな商家に育ったらしい彼の持ち物は、あっという間にそのほとんどがそれなりの額の路銀へと変わった。 結果、ぽつんと寂しげに残ったのが件の風車だったのだ。さすがに引き取り手はないだろうと踏んだ元就が、目に付いた道祖神の傍らへそれを挿し、置き捨てようとするのを止めたのは元親である。 当然のように、何故、と元就は尋ねた。まろやかな輪郭を描く子どもの面で、けれど奇妙に枯れた大人の声で。 結果、『いつもの』言い争いになった。 情であるとか思い入れであるとかを簡単に切り捨てるなという元親の主張を元就は頑として容れない。そうあろうと躍起になっているようにも見え、だからこそ元親は噛みつく。そうすることで交じらないことを確かめ、安堵していることに互いに気づきながら。 そして幾度かそんなことを繰り返し、気づかぬうちに発端の玩具はどこかへ消えていた。捨てたのかと責める元親に元就は「失くした」としか答えず、そのときを気づけなかった元親はそれ以上問い詰めることもできないままいつの間にか忘れ去っていた。 が、それがここにあり、古ぼけてはいるが見知った姿を留めて時を越えている。 さてそれはどういうことか。考えれば顔が緩むのを止めることができない。 これは弄いの格好の種と、楽しみは戻ったときに取っておくため丁寧に包み直して文箱へしまう。 改めて確かめた重い片方からはかちかちと金属のぶつかる音がした。銭か何かかと、紙を破らないように開くと、中から出てきたのは紐に通された銅銭と……。 それが何か理解した頭が、とっさに紙を閉じる。 「いやこれ、そう簡単に金に換えられないだろうよ……」 天を仰いで息ひとつ吐き出し、もう一度包みの中を覗き見ると、今度は表面へ黒く刻まれた文字までがはっきりと見て取れた。 御用銀。元就の持ち物なのだからおそらくは、石見の。 永の歳月を経て今なお失われない鈍い光を見つめていると、急に包みが重くなったような気がする。 もてあましているところで、再び電話が鳴った。 「見つけたか」 先ほどと同じ調子である。元親が応と答えたきり何を言うべきか考えていると、なんだといぶかしむのでとりあえず見つけたものをどうするつもりなのか尋ねた。いずれどこかで売るつもりだという断言している割に行く末の曖昧な返答がある。 ただそれでもこの声を聞いただけで、こいつのことだから何の当てもなく適当なことを言うわけはないだろうと思え、それ以上を元親は尋ねるのをやめた。 今の元就の容は、しがない学生で、何ほどの力もないと知っていて、それでも。 そんな信頼の所以は、望みはしなくともともに永の時を越えたことにある。 振り積む時間の重みは、元親と元就の間にあるものをも緩やかに、けれども確かに変質させていた。 だがその変化は、先刻樹に飲み込まれた祠を見たとき感じたような恐ろしさを呼びはしない。 何がどう違うんだと自問して笑う元親の耳へ、苛立ちに少しばかり毛羽立った元就の声が吹き込まれた。電話口でいちいち黙るなと言う。 己の思惑通りにことが運ぶために時間を使うことを惜しまぬくせ、相対すると妙に気短になるのは相変わらずだ。そうして、幾年を経ても変わらないものもある。 「それからな、」 何だと問い返してくる元就の不機嫌を聞こえないふりで、傍らの文箱に視線をやる。その中身について口にすれば、今度黙ったのは元就だった。 ああやはり鼻先につきつけてやればよかったと、顔の見えない電話口で元親が後悔していると、早く戻ってきて返せと(気のせいかもしれないが)少し上ずった声が言う。 「早く会って話したいもんな」 元親が軽口を最後まで聞かずに、我慢ならぬと電話が切れた。
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