海に灰のふる


 

 元就が防府へ下ったのは小雪の頃。そぼふる雨が身を冷やすような日のことだった。中途の道を急いだために、思いの外早くの到着となった旨、迎える先に早馬を出して自らは山間の古刹に足を息めた。
 つかの間の滞在ゆえと、殊更の計らいは求めず。
 奥の室へ、住職に通されて座った。
 煙雨の幕の向こうで、近習たちの潜めた話し声が聞こえる。窓の向こうの木々の間に、遠く防府の港が霞んで見えた。
 ふと、廊に人の気配を感じて顔を上げた元就は、炭櫃を抱えて室の前に立つ男の姿に目を丸くした。
「・・・・・・貴様、なぜここにいる」
 己でも驚くほどに、間抜けな声が出た。男の持ち入った炭櫃の所為で、凍るようだった空気が緩むついでに気が萎える。
「んー、まあちょっとな、港の下見に」
 悪びれず、長曾我部元親は置いた炭櫃をはさんで元就の向かいに、座った。
「賊に中国の地は踏ませぬ。他をあたるがよい」
「・・・・・・そこじゃなくて何でこの寺にいるのかを聞けよ・・・・・・」
「貴様一人がどう動こうが我には関わりがなかろう。」
 間をおかず驚きから立ち直った元就がにべもなく返せば、元親はハァと大仰なため息をついて肩を落とした。
 櫃の中で灰が崩れて、赤く焼けた木肌が覗いている。
「何故ここにいるのか、言いたいなら言えばよい。できもせぬくせ我を篭絡しようなどと、下らぬ策を巡らすな」
 いじけた振りで炭をつついているのを鼻で笑った。鬼の言いたいことなど、元就には見えている。続く言葉はどうせ、聞き飽きた台詞だ。
「・・・・・・あんたに会いにきたんだよ」
 顔をあげた元親の、回りくどい方が好きなくせにという言葉に反して率直に伸べられた手をとがめることはしなかった。先ほどまで火にあてられていた掌は、乾いて頬に温い。
「わざわざ防府の港を荒らしてまでか、ご苦労なことだ」
 息をつく真似で親指の付け根辺りを吹いてやれば、その手は震え、元親は二度しまったという顔を重ねた。
  一度目は元就の言葉通りに、旗印を隠さぬ船を港に寄せて街を騒然とさせてきたことが、知れていると思って。二度目は、そう元就に知れていると、思ってしまったことに。
「かまかけんな」
「他意あらば今ここで殺しているところだ」
 不満げに口を塞ごうとしてきた掌を今度は押し戻して、元就は顎を上げる。
 四国からの目的の知れない訪問で混乱した防府から、今しばらく此処への滞留をという旨の返書が届いたのはその直後のことだ。知らせを運んだ近習は、主と向かい合わせの客人に驚いた様子であったが委細を問うようなことはせず、下がった。さすがよく躾けられているなと嫌味だろう台詞を吐く元親の前で、元就はこれで別室の従者たちに知れたろう目の前の男の存在をこの後どうして納得させるかに思いを馳せていた。
「降り込められたな」
 しばしの後、大した感慨もなくつぶやき、窓の外を見遣る。雨脚は先と変わらぬか細さで、けれども止むことはなく山々の土を緩ませる。ぬかるんだ足場をおしてまで、山を下ろうとは思わなかった。
「そうそう、こんな雨の中出かけて行くこたないぜ。しかも山の下は火事だ」
 下らぬいたずらが、標的を驚かせる前に種を見抜かれたように、投げやりな提案をよこす元親はここぞとばかりに再び手を伸べてきて、先ほどよりも強引に、体を寄せられる。
 炭で袖を焦がしては、と、癖の悪い足が炭櫃を蹴遣り、間にさえぎるものがなくなって結局元就は元親の腕に収まる形になった。
「冷て」
 雪でも抱いてるみたいだな、と、融かしでもしたいのか元親の手が背をさする。あやすようなその手の動きが気に入らない。指先は頬より体より冷えているのを知っていて、元就は元親の首筋に手を伸ばした。銀の髪の根元、うなじに指先を押し付けるようにして、その頭を引き寄せる。
「貴様は温い、」
「あんたなあ……」
 首をすくめた元親が渋い顔をするのを、眼前で笑ってやる。頬は思いの外凍えていて、唇の端を持ち上げるのにも少しの違和感を残した。
 かまわずにもの言いたげな唇を食む、それだけであっさりと観念した元親が、二度目、三度目と深くなる口付けのあとで、ぽつりと。
「さすがに口の中まで冷えちゃいねぇな」
と、呟いた。
 多分、体のうちも、そうなのだろう。

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 愉楽のあとの震えは、身体を離すだけですぐさま寒さによるそれになり代わった。夢のふちから引き上げられたけだるさを抱えたまま、襟を寛げられたせいで滑り落ちて放り出されていた懐紙を拾い、手を拭う。
 中で果てさせない代わり最後を手で慰めてやったせいで、二人分のそれが受け止めきれずに手のひらから零れる。臍の辺りも濡れていた。
 それらを出来る限り無感情に、事務的に処理していく。おざなりにたくし上げられた着衣の首元を整え、投げ遣られた袴を掃き、哀れ敷き布代わりにされてしまった羽織の皺を直し。そこまでの一連の作業を眺めていた元親が、ふと、
「雪、てぇよりは熾き火だな、あんたは」
消え入りかけた炭櫃の炭をつつきながら言った。情事のあとは大概、暫くの間だらしなく衣を乱したままでいる男も、外気の冷たさに負けたのかすでに身なりを整えている。
「吹けばまだ燃えるくせに、やめた途端あっさり白くなりやがって」
 火箸を持つ逆の手で元就の手を取り、指先に唇を寄せる。苦いといいながら形をなぞってくる舌先に沿って、早々に冷え切っていた指がじくじくと、疼くような熱を取り戻した。
「でも芯はまだ灼けてるだろ?」
  芯、というのが何を指すのかわからなかった。
 快楽をひきずっている体は確かにまだ火を残しているようで、ただ掌に触れられるだけでも蕩けた身の内を曝け出しそうになるけれども、この男が言いたいのはそのことだけではないようにも思う。
 元就が否とも応とも答えずにいるうちに、
「だめだな、こりゃ」
 元親はそういって、炭櫃を抱えて立ち上がった。新しい火をもらってくると言う。はなから答えなど期待していなかったという風情だ。
 それ以上を求められなかったことに安堵のような肩透かしのような、どちらともいえない思いを抱いたのを押し隠して、元就はついでに手水をと所望した。
 懐紙で中途に拭き取った精液と、舌でなぞられた跡が渇いて居心地が悪い。
 応じた元親は、ひらひらと手を振って室を出て行った。
 そも、一人でいるために通された室である。だというのに、闖入者である元親一人が出て行っただけで室の寒さが増す気がするのは、気の迷いだ。
 窓の外の雨音が聞こえないことに気づいて見遣れば、いつからか雨は雪に変わっていた。さては寒さはそのせいか、と、元就は誰にともなく釈明をした。
 ちらちらと舞う雪は――灰に似ている。
 熾のようだ、という元親の言葉が耳に戻った。けれども、元就は赤く焼けた熾き火よりも、ゆるりゆるりとそれを包んでゆく、白い灰を思う。熾だというのならいつかは、あの灰のみになるのだろうと。
(灰であれば、海に落ちれば降り積もる)
 雪と見紛う灰が、海に降るさまを目裏に描く。やがて灰は波間に落ち、寄る波に呑まれ、再び降る雪のように水底を目指すのだ。
 海に融けることは叶わずとも、抱かれて在ることはできる。
 夢想の風景に吐き出した息は、細く白く、荼毘の煙のよう、束の間棚引いて空に消えた。

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