道の果てにて


「失策よ」
 松の枝から雪が弾かれ落ちるのを見て、元就が呟いた。
 雪見酒である。
 常は酒を好まない元就の、上気して朱を刷いた頬が珍しくて伸ばした元親の手は、目標にたどり着く前に叩き落とされた。まるきり羽虫のような扱いだ。
「歳も改まったってのにまだ根に持ってんのかよ……」
 がっくりと肩を落として、元親は自分の杯にちびりと口をつけた。苦い酒だ。ちらりと横目で盗み見る元就の顔は特段変わった様子もない。がしかし、不機嫌なことに間違いはなかった。
 必要最低限の人間しか出入りしないのであろう館の奥の室で顔をあわせた初めの、
「よう参られた」
その一言から、すでに棘があった。従卒に酒を持たせ、濡れ縁に二人きりになってからは半刻以上黙ったままで、そして漸く口を開いたと思ったら先ほどの言葉である。
 逢瀬は、実に四ヶ月ぶりだ。
 当然の話、元就の不機嫌は長の無沙汰を責めてのものではない。黙殺と呼べるほど元親の存在を無視している様からは、できるならもう二度と顔すら合わせたくはなかったという雰囲気が見て取れる。
「去年は戻らぬ、か」
 再び呟かれた元就の言葉で、元親は己の失言を知り、と同時に開き直った。いい加減、前に進めず後ろに戻れない空気に我慢ならなくなったのである。杯の酒を一息に乾してもう一度口を開く。
「防長二国への減知、現当主は家督を譲って一線から退くこと、毛利の新しい居城はこの萩に、あちらさんの監視の下で」
 元就が首をめぐらせた気配を感じて、元親は少し息をついた。この男の場合、怒らせてでもこちらを向かせなければ、最初から最後までいなかったように扱われた挙句によい時刻になれば当然のように放り出されかれない。
 が、もう一押しとたたみかけようとした元親よりも先に、元就の方が思いもよらぬ行動に出た。
「痛ぇっ!」
 油断、などという問題ではなかった。鬼謀の将とうたわれた毛利元就が、そんな暴挙に出るなどと誰が思おうか。悪さをした子どもに母親がするように、耳を抓まれ引っ張られた元親は、なすすべもなく悲鳴を上げた。無論、元就は元親の母親ではないので容赦にかけている。平家の亡霊に耳を引きちぎられた琵琶法師の話を聞いたことがあるが、寧ろその亡霊の所業に近い。
「離せ、こら!」
 などと巧いたとえを探している場合ではない。少しでも痛みから逃れようとして、元親は引きずられるまま体ごと元就に近寄った。それでようやく引きずる手は緩んだが、まだ耳をつかんだ指先には力が篭っていて逃げる術がない。自然にじんだ涙で視界がかすんだ。
「誰のせいだと、思っている」
 耳の側から吹き込まれた問いの答えは、考える間でもなく元親のせいである。
 関ヶ原の戦場にいたもので、終始の西軍有利を知らぬものはいない。東軍に、総大将の軍が自ら果敢に切り込み戦果をあげてゆく様は、諸将の闘志を奮い立たせた。己の属す軍の勝利を信じて一つでも多くの軍功をと誰もが戦い、その意思は数を圧倒した。
 それが、今こそ東軍大将徳川家康の首級をあげんという局面になって突然、退かざるをえなくされたのである。他のどの軍でもない、長曾我部軍の、退却によって。
 西軍は混乱の坩堝に追い落とされた。悪いことは、長曾我部軍以外で突出していた軍の兵の幾たりかが、戦の最中に総大将同士の会話を聞いてしまったことである。すわ、総大将自らの裏切りか、三河と組んで西国すべてを平らげるのが腹だったかと、西軍諸将は憤り、長曾我部討つべしという者すら出てくる始末。
 それを阻んだのは、毛利軍であった。
 とはいえ特別、毛利が長曾我部の(自ら招いた)窮地を救うために何かした、というわけではない。元々毛利は西軍では末席扱いであった。総大将の長曾我部との関係がすこぶる悪いのは周知であったし、それがなくとも腹に何を抱えているかわからない毛利を心の底から信用しようという者はいなかった。それゆえに、屈指の大軍を率いながらこの東西の命運を分けた戦での毛利軍の働きは小さく、結果的に兵の損失は最小で済んだ。そしてそのほぼ無傷の軍がまず真っ先に、退却する長曾我部軍の背を追ったのである。
 両軍の不仲を知る者……つまるところ、戦場にいたほぼ全ての兵たちは、さもありなんとばかりその後ろへ続いた。がしかし、軍の動きがひどく緩慢なのであった。
 大軍ゆえに足並みが乱れたか。後方になるほど鈍る歩みに、他軍の将はほぞをかんだ。痺れを切らした一部の部隊が毛利の前へ躍り出たとき、すでに長曾我部の兵は一兵たりとて、追う者の手の届く場所にはいなかった。
 毛利は後を追ったわけではなく、長曾我部討伐を掲げた者たちを阻むことを目的に軍を反転させたのだと気づいたものは多くはなかったようだ。気づいたものも、もはや遅く。
 関ヶ原では東軍の、勝鬨というにはどこか弱々しい歓喜の声があがり、西軍は敗北を知った。東軍とてすでに壊滅的な打撃を受けており、さらにぶつかれば結果はわからなかったのだけれども、鮮やかに兵を牽引して見せた長曾我部という頭を失った者たちに、三河の不屈に対するだけの気骨はすでに残されていなかったのである。
 かくして天下分け目の決戦は幕を引き、敗軍の領主たちは仕置きを受けることとなった。
 多くは家康によってその領地を追われ、それを拒んで新たな戦に果てるものもあり、そんな中にあって、かつて支配した土地とは比ぶべくもないにしろ二国を安堵された毛利は異質である。
 凡その者は戦より以前に毛利が三河と何らかの繋がりがあったろうことを疑ったが、それを咎めだてするものはすでになく、また、元就があっさりと国主の座を譲って蟄居したことで徳川の家臣たちの不信も抑えられていた。国を削られ、元就の去った毛利など、もはや恐れるものではないということだ。
 勝者側からのそんなみくびった視線は無論不愉快だろうけれども、それと引き換えに取った実は元就にとってそう悪いものではなかったはずだ。少なくとも、領地も何もなく、すでに死んだものとして隠遁生活を強いられている元親に比べれば。
 だがそれを漏らした元親に降ってきたのは杯を置いた元就の手による一撃だった。
「貴様はそれで不自由しているとでも言うのか」
 しなれないことをしたのだと思われる。殴った拳を解いて手をひらひらと翻しつつ、元就は言った。殴られた頭を抱えたままで元親が顔を上げると、ようやく視線が合った。冷めた目は、そらされることなくじっと、元親を見ている。
 もとより、陸に足をつけているよりも海の上にいるほうが多かった元親である。かつて領地としていた国にはすでに徳川方が配した新たな領主が入っているが、そこに住む者たちは変わらずに生きているようで、しかもそれを元親は、海の上から自らの目で確かめることが出来た。それは幸運でもなんでもなく、家康による目こぼしであることは承知している。武将としての長曾我部はすでになく、けれど気ままな海賊はしぶとく生き残ることを許された。そんな拾い物を充分だと思ってしまっている点で、領地云々の話を元就より不遇と言えるはずもない。
 否定が顔に出ていたのだろう。元就が嘆息した。
「それにしたって、あんた今日は随分と直截っつうか、」
 何やらまだぐわんぐわんと鳴っている頭をしつこくさすっていると、白い手が再び伸ばされる。まさかまたと身を引こうとしたのを笑うように、指先が頬に触れた。
「……飲みすぎじゃねえのか」
 触れた指が、ひどく熱いのだ。先ほど耳を強かに引っ張られたときにはそれどころではなかったので気づかなかったのだが。
 元親の知る元就は、いつ触れても氷のような、冷えた指先をしていた。何より先刻のような戯れとしか思えない暴力を振るう男ではない。傷をつけるのが目的であれば迷わず懐の匕首を抜くような輩である。今日の元就の奇特な行動が酒の所為であるとすればこれほど迷惑な酒もないが、さしあたって熱すぎるように思える体の方にばかり心がいった。
「我は酔うてはおらぬ」
 貴様の頬が冷たいのだと、ひたひたと触れてくる掌もやはり熱い。何より、そうして遠慮もなしに触れてくること自体すでに常の元就ではない。
「酔ってなくてもおかしいぞ、あんた」
 窘めるように言ったが、元就本人はもう酒に手をつけるつもりはないようだったのでそれで黙る。酒の代わりに舐められた唇に、熱を移された。
「貴様の所為で全てを喪ったものは多かろうな」
 だがそんな風に誘っておいて、唐突に元就は会った初めの厭味へと立ち返る。元親が元就の頬へ添えようとした手は、またしても叩き落とされた。 
「あんたな、俺に何させたいんだ、今更謝れってか?」
「貴様が今まで起こした戦で死んだ兵に謝りたいというのなら今すぐここで殺してやるが、」
黄泉路へ行ってくるかと熱い指が、顎を伝って首元へ伸ばされる。軽口で本当に首を絞められては敵わないので、慌ててその手を取った。なおも、元就の真意の測れない顔が目の前にある。
「……どっちにも謝る気はねぇよ、あんたや、他に俺についてきてた国の奴らにも、死んだやつらにも」
 関ヶ原での戦にいたのが、元親と家康の、それぞれの配下の軍だけでなかったことは、無論元親にも自覚はあった。勢力を拡げれば拡げるほど、利害で繋がる者は多くなり、自らの手や足の延長のようには動かなくなる。そういう、元親に利あらずと見れば簡単に相手の陣営へ飛び込むようなものたちもあの場には多かった。
 そう知りながら家康を討つことが出来なかったのは、目の前の男が殊更厭う、友人への情のためである。背に何を負おうとも、結局元親はそれを決して捨てることはできなかった。もとよりできるはずもなかった。
「ならば結局、貴様は天下人の器ではなかったのだ」
「何とでも言えよ、その通りだ。けど家康なら、」
「そんな貴様になど選ばれたところで、三河は喜びもしないだろうな」
「……」
 もうよい、と、元親の述懐を遮って元就が唇を寄せてくる。求めてみたり遮ってみたり、いつになく自分本位な様に翻弄されつつも、懲りずに伸ばした手はようやく、その肌に触れることが出来た。
 だが、許したと見せてまた耳でも引っ張られるのではないかと暫し疑ったままだった元親は、これもまた珍しく元就の目元が笑みの形に緩んでいたことに、気づくことはできなかった。

■□■

(……頭が痛い)
 寝ている間に再び載ったらしい松の枝の雪が落ちる音で元就は目覚め、体を起こして外へ出た。元親は無用心にも眠ったままだ。今なら首が獲れる、と、もはやくせのように考えて、無益さに首を振った。縁には二人座っていたときのまま、杯と銚子が転がっている。ちらほらとまだ、雪が舞っていた。
 慣れない酒が過ぎた、と、空の銚子を指でつまんで杯を重ね、厨へ向かう。人の出入りの少ない館だ。昨晩の人払いを続けているわけではなかろうが、近くに人の気配はなかった。
 酒を過ごすようなことは、幾年ぶりだろうか。まして、人との再会を喜んでの失態など。
(やはり、あれには天下人など見合わぬ)
 白く色を失った庭に、間の抜けた寝顔を思い浮かべ知らず、元就は口角を上げる。
 関ヶ原で、長曾我部の軍が勝利を目前にして退却を始めたと聞いたとき、何を思ったのだったか。元就には一生理解できぬ情とやらに流されたのだろうことをすぐに察して、愚かなと嘲った、そしてこの男に命運を預けた失策を呪ったその裏側では、天下を目指す代償であるしがらみに惑わされることなく自らの信念を取った男を、どこか小気味よく思ったのではなかったか。もっとも、元親自身はそんな小難しいことは念頭になく、目の前に転がった情を深く考えもせず拾い上げただけに違いないが。
 凍えるような朝の空気の中にあって、妙に胸のうちが温かい。どこかで、それでよいと思ってしまう己を否めない。
(ああ、忌々しい)
 室に戻ってまだあの男が寝ていたら、顔に雪をぶちまけて叩き起こしてやろうと、心にきめた。

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