抱きしめたい
だからこの男はわからんのだ、と思った。
衣の肩がすっかり濡れてしまっている。
近頃は随分と暖かくなってきたので、駆け寄って取った手はまだそれほど冷えてはいなかった。ただいきなり後ろから触られて、振り返った男の目は常の比でないほどに冷え切っていたけれども。
「……何をしに、来た」
雨滴に湿った唇が開かれて出てくる言葉も地の底から這い出してきたようで、つまりひどく不機嫌なのだと、察して元親は手を引いた。あまり触っていると斬り殺されかねない。代わりにその頭から、庭に出る前に拾ってきた羽織をかけてやる。今は迷惑そうに肩までそれをずり下げる男は、屋根の下から見たときは比較的機嫌のよい様子でいたように思うのに、あれは幻だったのか。
「何ってあんたに会いに。文も遣したし、表から通されてきたし、文句言われる筋合いはねえぞ。どっちかと言うと俺が、客が来るのをわかってるはずのあんたが雨ん中ずぶ濡れで庭に立って何をしてたのかを訊きた、」
言い終える前に、引き寄せられて過たず唇が合わさった。
予想だにしない元就の行動に虚をつかれた元親が目を白黒させているのに構わず、やわい舌の感触が、上唇と下唇の合間をなぞる。あけろといって、探ってくる。
「ふ、」
ぴったりと吸いついていた唇が、すこし浮いたところへ漏れ出た息はどちらのものか。一度口内へ導き入れてしまえば、定かではなくなる。元親が応えずとも好きに動く元就の舌は、細やかに凹凸する表面を舐めとり、縁をたどるだけでは飽き足らず、舌の裏の粘膜で唾液をまぜ、歯列をくすぐる。
その一つ一つが元親の官能を刺激するためのものであるのはまぎれもないのだが、どうにも露骨過ぎ、却って頭が他人事のように冴えていく。それでもしばらくの間はされるがままでいた元親だったが、腿の間に膝が割り入ってきたときさすがに焦って体を引き剥がした。
「いきなり何をしやがんだ、あんたは、」
息を整えながら抗議すれば、朱を強くした唇を弧にゆがめた元就が再びするりと腕を伸ばしてくる。頬に添えられそうになった手を直前で掴み、無理やりに引きおろす。
「やめろって。あんた俺のことなめてかかりすぎだ。こんなんで誤魔化されねぇぞ、いくらなんでも」
むしろ、そうまでして誤魔化したいことが何なのかを余計に知りたくなってしまった。強引すぎる口づけを仕掛けてきた元就の意図が先ほどの元親の疑問の向く先を誤魔化すためなのだとしたら、完全に失策である。
それがわかったのか、元就も顔を顰めた。「下らぬところで察しのいい」などと毒づいて見せるものだから、では先ほどのうっそりとした笑みは演技かと空恐ろしくなる。
「で、何なんだよ」
「戻るぞ」
「おい!」
ぴしゃりと言いつけて踵を返す、初めからそうしていれば深入りする糸口も見えなかったはずなのに。無意識なのかどうなのか、誘い込むように口を開かれたら飛び込みたくもなるではないか。
さっさと室に戻る元就の背を追って漸く元親が濡れ縁へ上がりこむと顔面に手ぬぐいが飛んできた。
「貴様は一応客分なのだろうが。風邪でもひかれては我の体面に関わる」
拭いておけと言われてその通りにしている元親だったが、そのまま逃がすつもりもなかった。濡髪の間からじっと相手を窺い見ていると、しばらくの間は自分も髪やら肩やらの雨滴を拭っていた元就が、観念したように口を開いた。
「……花がもう、終わるな」
「ああ、まあこの雨じゃな」
花の盛りはとうに過ぎてしまっている。まだちらほらと残っていた往き遅れの花びらも、この雨で最期を迎えるだろう。
その無常の風情に、心囚われたとでも言うのだろうか。
「けどこの庭、桜はねえだろ」
「そうではない。そうではなくて、この、花散らしの雨が」
途切れ途切れ漏らされる音は、時折雨音よりも儚い。不審に思うほどの力弱さに思わず元親が近寄れば、今度は拒絶の意味で腕が伸ばされ押し留められる。
「随分と穏やかだと、」
言われてあらためて見る花の終わりの雨は元就の言う通り、たおやかに優しい。軒先を叩く雨音もやわらかな、音曲のようで。歌人ならずとも歌に写し取りたくなる風情である。
が、意外なほどに詩情溢れる感性よりも、その後元就が搾り出した言葉に元親は目を丸くした。
「この雨に抱かれて散るようには、死ねぬだろう、と」
それきり、元就は片手で顔を覆って俯いてしまった。
随分弱気だな、とからかうべきか。
鬼謀の将が、今更何を言ってんだとでも笑い飛ばすべきなのか。
片手で覆い切れない頬の白皙に目に見えて朱が差しているのがわかると、言葉は春霞よりもまだ淡く霞んで形を成さず、ぼやぼやと部屋の中を漂う。そもそもなぜそんなことを、身を縮めるほど恥じる必要があるのかが元親にはわからなかったので。秤にかけたならばどう考えても、先ほどの口づけのときに見せた媚態の方が、恥じるべきだろうと思うのに。
ただ、滅多に見ることのない元就という男の弱味をまざまざと見せつけられて、言葉にしがたい感情が腹の辺りに生まれたのは確かだった。
「……貴様にはわからぬ。ゆえに貴様は哂うまい、だが、それでも」
そのような柔弱な様を一時でもうわべに出した自分を、赦せないのだと。
雨の滲みた空気は、常よりも密に向かう相手の思いを伝えるものなのだろうか。困惑と愛しみ、というのが近いように思う元親のそれを感じとったように、元就が言葉を継いだ。
「よりによって貴様に見られるな、ど」
再び元就が言葉を失くす前に、無理やりに引き寄せてしまう。
もっと抵抗されるかと思って身構えていた元親だったが、意外なほど大人しく一回り小さな体が腕の中に転がり込んできた。ただ、引きずられたから倒れこんだというだけの様子で、人がたをした石の塊を抱き込んでいるようにその体は固い。
それは面罵されるよりも性質の悪い拒絶だけれども、気を悪くする以上に元親が、これを抱きしめていたいという欲のほうが強かった。大体、こういうことをするのに逐一相手の納得と承認を得ようとしたら、人の一生全て費やしても触れることさえかなわない相手なので。
しばらくしてから我に返ったようにぐずぐずと中途半端な抵抗を試みようとする元就を、体格の差をいいことにさらに抱き篭める。
「離せ」
「やだね。あんた自分で言ったろ。俺に見られたのが運の尽き、だ」
「何もわかっておらぬくせに、よく言えたものだ」
「あんたの考えてることなんかわかるかよ。でも何か恥ずかしがってるのはわかる。で、そういうあんたは、可愛いからな」
「……死ね」
最後に吐き捨てられた言葉は、死ぬ、だったかもしれなくて、思わず笑ってしまった。
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