霧中問答


 毛利の本城は、山ひとつを拓いて作られたもの。幾重にも重ねられた郭の、高い位置に在る一つへとどまれば、眼下には彼の男が統べる地の、その中心が見渡せる。
 うと、と、半ば眠りに手を引かれながらひとり、元親はそれらの風景を見渡した。
 こじんまりとした町である。山陽山陰を治める主の膝元とは思えぬ。首をめぐらせればあっというまに町は消え、まだぴんと空を向いた稲の穂揺れる田園が広がり、ぽつりぽつりと人家の屋根。
 滔々と流れる川を目線が越えれば、雲の一群れが山の稜線をたどるように降り、谷間を白く染める様が見えた。
(甘やかされてんなぁ)
 甘く見られている、の間違いかもしれなかった。
 元就がここへ元親を待たせたのは、これらの風景を見られても問題がないと彼が判じたからであり。その態度を表すに信頼という言葉では、甘すぎる。つまるところ、見られたところで元親にはこの地へ攻めいることなどできまいという元就の自信のあらわれだ。
 なめられている、そう思うにつけ、自分自身でも稚いと感じる反抗心が腹を刺した。
 陸での戦を好まない元親とはいえ、領内を一望できる場所にいれば自然、その地の要衝を目が探す。
 己であればこの城、どう攻めるであろうか。かつて二万の大軍を押し返したという堅牢なる城である。もとより多勢でない長曾我部の兵でもって攻めるのであれば――。
 ふいに、視界が白く濁った。
 不穏な想像から主を守るような霧は、何のことはない、先ほど元親が視線の先に見た雲だ。それが今は、元親のいる館を背から抱き、山裾へ向けて流れゆくのだろう。
(本気にすんなよ) 
 乳白の衣に目隠しをされた元親は中空へ向けて笑い、見るものをなくして屋内へ向き直る。館の主ははまだやってこない。ほかに家人すらいないのか物音も聞こえず、俄かに現実が間遠になった。
 今度こそ眠ってしまおうか――と、目を閉じたところでその耳に、鈴を転がす音が届いた。
 りり、りり、と。霧に冷えた空気を震わすその音は幽か。
 夏も終わりに近づき、夜ともなれば愛らしく虫の囁く時期である。霧に光を奪われた下生えで、それらが日暮れと誤って歌い始めたかと元親は耳を傾けた。
 が、どうやらそれは違うようだ。
 五百鈴を振り鳴らすような虫の声は、確かに聞こえる。だが今耳をくすぐった音は、もっと儚く、けれど鮮明な意思を持って近づいてくる、たとえるならば誰かの歩む衣擦れのそれに近い。
 源を探って元親が首をめぐらせる間にも、鈴の音は近づく。それが部屋の外で、ぴたりとやんだ。
「毛利、あんたか?」
 先ほどまで元親が眺めていた戸口とは反対側、閉じられたままだった障子を引くと、果たしてそこに待ち人が佇んでいる。
 行儀悪く座ったままで障子を開けた元親を見下ろす元就は、見覚えある萌黄の衣に白い袴を膝近くで結び、素足を晒して立っていた。これに具足を重ねれば戦装束そのものの体だが、袴の裾を上げる紐に、小指の先ほどの鈴が纏わりついていた。
 音の源はこれかと、女のように白く細い脹脛の横へ垂れた鈴を元親は見つめる。
 しかして、妙な間が落ちた。
 物も言わぬ男は、ただそこにいるだけで。ねめつける目は常日頃と同じだがどこか茫洋として、何も捉えていないようにも見える。
(これは違うな)
 人としての意思をどこかに忘れてきたかのような様を見て彼を狐狸の類かと疑る元親は、言葉をかけない。
 そうして時間を伸縮させる沈黙の後、堪えきれぬように、りん、と男の足の鈴が鳴った。
「……」
 見つめる元親の横を、元就の姿をしたものがすり抜け、その動きに鈴の音が添う。どこへゆくのかと目で追えば、そのまま室を横切り、濡れ縁へと向かった。先ほど元親が見ていた方である。相変わらず、外は濃い霧に包まれ視野は判然としない。千切れ雲にしては長い。もしか、雨があるかもしれなかった。
 今や男の半身は、濡れ縁にわだかまる霧に沈んでいる。そこで、ふいに男が振り返った。
 しまった、と元親は舌を打つ。男と目のあった刹那、耳の奥に不自然に鈴の音が舞った。先ほどよりも遠ざかったはずのそれが、今までのどの音よりも近くで聞こえる。男との間に何かがつながったと感じたときには、体はすでに立ち上がりその後を追って外へと向かっている。
(ずるいだろ、これは)
 縁の外、霧の中へ姿を隠した男は振り向きざま、元親を求めるように視線を投げてきた。
 元親の知る元就は、そのような顔をしない男ではある。
 何かを欲するならば、他人に頼る暇があるならば一計を案じて自らで手に入れる。欲望は己に端を発し、己の中で昇華されるもの。要するに他人を信じて任せることをしない、不遜で傲慢な男である。
 が、それがまれに、あのような顔をすることがある。ひらりと、すがるような目を見せることがある。わかっていてそうするのならば勝手もいいところだが、それを指摘すると心底忌々しそうに否定するのだから本人も気づいてはいないのだろう。
 元親は、元就のそういう表情こそを最も愛しみ、望んでいた。
 そんなものを眼前で見せられて、まともな思考で応じられるわけがない。 
 物の怪(と思われるもの)にあっさりと魂を捉えられた元親は、言い訳をするようにして素足のまま縁から降りた。やはり雨が降っている。霧と同じ、髪へ、肌へ細かく吹き付ける雨だ。
 男の姿はすでにない。ただ、霧で隔たった向こうから微かな鈴の音が聞こえる。鈴を模した虫の声に交じって密やかに誘うその音をよすがに、元親はその姿を探した。
 一歩歩めば右の耳に音が滑る。そちらを向けば、背の方から戯れかかるように。元親が諦めようとすれば、半間ほど先にしらりと萌黄の袖が舞った。
 そうして半刻ばかり立ったろうか。細かい雨は元親の髪に宿って雫をなし、衣はすっかり濡れて体に張り付いている。まだ寒い時期ではないが、このまま遊んでいては風邪をひくかもしれない。そんなことになったら、本物に何を言われるか。
「なあ、あんた何が言いたいんだ」
 物の怪の類に話しかけてはいけないと思って黙っていたものを、結局焦れて元親は口を開いた。途端、ぽか、と霧に穴が開き、その向こうに男の姿が浮かぶ。
 男は元就の面でこちらを見つめている。彼が何であるのかは元親にはわからず、ただ望むところがあるならば満たしてやりたいと思わせる顔だけをこちらへ向けていた。
 雨が鈴を揺らすのか、震える音と共に佇む男は返答のかわりに元親へ手を伸ばした。ちりりとまた耳をくすぐった音に、袖に通した紐にも鈴がついていることを知る。それに誘われるままに元親は今一歩男の方へ足を踏み出そうとし――が、その瞬間に視界が反転した。




「――他家の城山で死ぬでない」
 傘の骨を伝った雨滴がぽつりぽつりと、鎖骨の間の窪みに落ちてくる。
 ぬかるみに仰向けに倒れた元親の顔の上に申し訳程度に傘を掲げ、覗き込んでくるのは正しくこの城の主である。雨よりよほど重い雫に叩かれてこれでは傘の意味がないだろうと文句を言っても、今更濡れたとて大して変わるまいとにべもない。
 どうやら本物だと思い、元親は体を起こした。
「少しは加減してくれよ……」
 背中一面にこびりついた泥を払おうにも、そもそも払う手が泥まみれだ。反して、元親の襟首を引っつかんで後ろに引き倒してくれた男は、どこをどうしたものか袴に染みの一つもつけずに知らぬ顔でいる。
 霧は少し引いたようだ。ちょうど元就の背のほうから、ぼやけた日の光が差し始めている。
 どこをどう迷い込んだのか知らないが、庭の中と思っていた場所はいつの間にか鬱蒼と茂る木々の合間に変わっており、先ほどまでいた館など、見えるのは霧にかすんだ屋根ばかり。
 元就の言葉とその眉間に僅かに寄った皺から、うるさく虫の鳴く目の前の茂みの向こうがどうなっているのかは大体想像がついた。が、不思議と恐ろしいとは思わない。あれに殺されるならばそれでもいいと思ってしまうあたり、まだ化かされているのかもしれなかった。
 助け起こしてくれと伸ばした手は空を切る。期待はしていなかった元親は予定通りの結果に苦笑し、もう用は済んだと背を向けた元就の後ろについた。
 いまだ視界は霧で覚束ないというのに男の足取りは迷いない。風が霧を揺らせばその背は易々と隠されてしまうが、弄うわけではない歩みはたまに後ろを気にしているようでもあり。
「何と遊んでいた」
 背越しに話しかけてくるのはそれを誤魔化すため、というのはさすがに思い過ごしだろうか。問うたところで無為に怒らせるだけだろうので、知るすべがない。ただ、常と変わらぬ平坦な口調からは、元親を惑わしたものの正体にそれほど興味があるとは取れなかった。
「知らん。あんたの顔した化物だよ。霧ん中からこう、手ぇ伸ばしてきてな、」
「鬼が狭霧に迷うか。笑い種よ」
 霧雨が止み、立ち止まって傘を畳むついでに振り向いた元就の顔は、言葉の通り意地の悪い笑みを作っている。化かされたのは事実だが特にそれを恥じているわけでもない元親が肩をすくめると、大して面白くもなさそうに踵を返した。
「あんた、城の中で物の怪飼ってんのか?」
 意趣返しに物騒だと笑ってやるがそれも当たりはしなかった。
「知らぬわ。……だが貴様を崖下へ誘い込む手管、駒として使えるやも知れんな」
 飼うてやるから出て参れなどと言って、傘で茂みをつつくが当然何も出て来はしない。本気で言っているはずもない。
 大体、矛盾している。山林に分け入ってまで人を探しに来ておいて、追い落とそうとしたことが好都合だなどと。
 それに気づいているのかいないのか、早足で歩く元就の足元に日が射した。木の間を抜けて整えられた庭先まで戻ってくるのを見計らったように霧が晴れる。ああ、さすがに日輪の申し子を名乗るだけのことはあると埒もないことを考えて、その光を弾く雨の雫に元親は目を眇めた。
「あいつ、何が言いたかったんだかなぁ」
「……知れている。貴様のような異物を嫌い、追い払おうとしただけであろう」
 汚れるから縁に上がるなと元親を目で制し、着替えを持たせると自分だけ階を上がった元就はこともなげに言う。
(じゃああんたがあんな顔をするときは?)
 言いさして止め、奥へ消える姿を見送る。
 この日の光の下で、あの男が答えるはずもないし、元親も今答えの欲しい問いではなかった。
「あれはあれでいいとは思うんだけどな、」
 独りごちた元親は、唐突に指先へ走った痛みに顔をしかめた。反射で振った手から乾きかかった泥が飛び、行く先を追えばぽとりと落ちたその間から這い出てくる虫一匹。
「……お前か?」
 まさかな、と覗き込む。
 か細い足を振るい泥を落とした虫は、りり、と蜆ほどの羽を震わせた。

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