眠りによせて

 ノックを忘れた切原は、病室に入って初めて部屋の主の不在に気付いた。
 毛布は几帳面にベッドの足元にたたまれ、しおりを挟んだ本が閉じたテニス雑誌と一緒にサイドテーブルに置いてある。 誰かが見舞いに持ち込んだ様子の花瓶の花は、まめに水を替えてもらっているらしくまだ生き生きとしていた。けれど、そこにはぽっかりと穴が空きでもしたように人一人分の存在がなかった。
 何故か、胸がざわつく。ややペースを速めた自分の胸に拳を当てて、切原はすとん、とベッドの横の椅子に座った。
「何でいないんスかー…」
 そのまま上体を倒してシーツの上に半身を投げ出した。そこにはしっかりと人が寝ていた気配が残っていて大げさに安堵する。
 何かなんてあるわけがないことを知っていながら、姿が見えないだけで不安になるのは病院の陰気な白さの所為だ。
(あの人はこんなところにいる人じゃないのに)
 シーツの延長線上に向かい側の壁を見ながら、理不尽な不満を浮かべた。
 目を閉じれば以前なら鮮やかに思い出せたコートの中での彼の姿が、いつからか白く翳みはじめている。
(こんなところ)
 大きく息を吐いて、この空間を構成するもの全てを壊してしまいたい衝動を抑えこんだ。

◇◇◇

「……」
「保健室の眠り姫」
暢気な軽口をたたいた看護士を、幸村は眉を寄せて見つめた。
「面会時間は守ってもらってね」
 入れ代わり立ち代り毎日のようにやってくる制服の見舞い客と幸村の関係をよく知っている彼女は、「それから、今日は風が強いから屋上には上がらないでね」と言いおき、幸村を病室へ押し込んで去った。
 件の眠り姫は幸村がベッドに近づいてもすよすよと寝息を立てている。
 そういえば、この希代のエースは少々、いやかなり寝坊癖があったなとベッドを揺らさないよう反対側へまわって座りながら幸村は思った。
 真田が朝錬への遅刻をぼやいていたことも数知れない。
 手を伸ばして自分と似た質の髪に触れる。病院の中は常にひんやりとして感じられるものだが、気温になれている幸村はまだしも切原にはまだ少し暑いらしくうっすらと寝汗をかいていた。
 サイドテーブルにおいてあるハンドタオルをとり、切原のこめかみ辺りに宛てて汗を吸わせたところで幸村は頬を緩めた。
これではどちらが見舞いに来たのだか。
 そうこうしているうちに、切原が目を覚ました。寝ぼけ眼が覗き込むような姿勢でいる幸村に焦点を結んだ瞬間、彼は跳ね起きた。
「部長!え、いつ、帰って来たんスか!?」
 お化け屋敷で脅されたように椅子ごと後ろへ飛び退かれて苦笑する。手元のタオルをもとの折り目どおりにたたんで汗を拭くようにと切原に渡し、代わりにベッドに上った。
「ついさっきだよ。今日は検査日だったから。真田に聞いてこなかったのかい?」
 そう幸村が言うと、切原は目に見えてバツの悪そうな顔をした。その反応で、幸村は彼の頬にぞんざいに貼られた湿布と絆創膏の意味を知る。
「…痛いか?」
 右手で、真田に張られたのだろう切原の頬に触れた。
「…痛いっスよ。本気で殴るんだもん、副部長」
 その感触を思い出すように頬をさすっていた切原は、何を思ったか先刻寝ていたのと同様に椅子から上半身をベッドの上に投げ出した。
 だが、今そこには伸ばした幸村の脚がある。もちろん切原はそれをわかってやっているのであって、そんな彼の甘えた子どものような仕種をすでに許容している幸村も微塵も動揺などしなかったけれども。

「…強かったっス」
「そうか」
 猫を撫でるのと同じ仕方で、幸村は切原の頭を撫でた。
「…幸村部長、すんません、俺、」
「赤也」
 切原の声を遮った自分の言葉の調子が思うより厳しくなったことに苦笑する。殊それに関して、自分が真田よりもよほど強い執着を持っていることを幸村は自覚していた。
 だが、その内実は真田とは違っている。それを頭ではないどこかで理解しているからこそ、切原は真田に張られた頬をさすりながらここへ来たのだ。そのくせ、その言葉を口にしようとした彼を責める口調は自然険しくなる。
 切原が幸村の望む言葉を知らないはずはなかった。事実、膝の上から見上げてくる視線はもう、先程とは違って強い。
「部長、俺は」
 まだ負けてませんから。
「もちろんだよ」

「立海に負けはいらん、そうだろう?」
 生真面目な副部長の口調を真似て、破顔した。

◇◇◇

 検査というのが意外と体力を使う、と切原は聞いたことがある。一度病室を出た後、自分が幸村に渡されたハンドタオルを持ったままだったことに気付いて引き返してきたのだが。
 差し込んだ外の光が眠る幸村の頬に落ちて、線の細い面に陰翳を作った。
「…部長も負けないで」

はやく帰ってきて。
ウチには、俺には。
あんたがやっぱり必要だってことを、今知ったから。


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私的幸村と赤也は似てるのよ、という話。