only the moon saw...

 

「なんだ、お前まだいたのかよ」

 呆れたような慈しむような声が聞こえて、鳳は顔を上げた。

「宍戸さん」

 蛍光灯に晧々と照らされた部室の中と対照的なドアの外の闇に佇んでいるのは、わざわざ目を凝らして確認する必要などないひとだった。
 灯りの中へ宍戸が入ってくるのに遅れて、慌てて鳳は頬へと手をやる。夏の夜、背にした窓から入る風は生温く湿っていて、おまけに日の光がない分今の今までそこにあった涙を乾かすにはあまりに不十分だった。

「ったく、お前がいるなら別に来なくてよかったじゃねぇかよ」

 そんな鳳の姿について宍戸は何も触れなかった。ただ、自分がくぐったドアの外に視線を投げた横顔は、少しばかり戸惑っているようにも思えたけれども。

「俺、忘れ物して戻ってきて。さっきまで跡部部長…、跡部先輩もいたんですけど、俺がもたもたしてるから帰っちゃいました」

 取り繕うつもりで鳳はそう言って無理矢理に笑ったのだったが、宍戸は予想とはまったく違う顔をして振り向いた。

「跡部が、いた…?……あの野郎…」

 眉を寄せ、何かしら怒ったような表情で鳳を見つめながら、低い声で呟く。

「え、え、何怒ってるんですか宍戸さん、俺部長と何もしてませんよ?」
「アホ!」

 慌てた鳳の弁解はしかし完全に的を外していたらしく、居合切りもかくやという速さで両断された。

「お前な、今そういうこというシーンか?」

 鳳にしてみれば宍戸があらぬ誤解をしているのなら迅速にといておかなければならないわけで、まったくもって真剣にそう言ったのだったがどうもそれは軽口と取られたようで、宍戸は苛々を余計に募らせた顔で呟いた。
 そして情けない顔で理由のわからない怒りにオロオロするだけの鳳の横に腰を下ろす。

「あいつが部室の電気が点けっぱなしだから消して来いって言ったんだよ…」

 なのになんでお前がいるんだ。
 不機嫌に顔をそむけた宍戸と鳳の間に暫し沈黙が落ちる。
 なんで、なんてわかりきっているから機嫌を悪くしていることくらい鳳にも充分わかった。

「お前が、んな情けない顔ばっかしてるからだ」
「…すいません」

 世話焼けるやつ、と呟いたきり黙ってしまった宍戸の横顔を見て、少しだけ頬が緩む。けれど涙の痕が引き攣れて、微笑むまでにはならなかった。

「なんか、跡部先輩が部室出ていくの見たら寂しくなって。今は…もうこうやって世話焼かせるのも最後なのかな、とか思ったら余計に」

 宍戸から外した視線をコンクリートの床にやり、指を組んで握る。
 いつものように笑えない代わり、自嘲の笑みが零れた。結局のところ、自分は宍戸に呆れてほしいのだと鳳は思う。いつまでも不甲斐ない自分を、笑って、そして試合のときと同じように、背中をおしてほしいのだ。そうすれば明日からはまた滞りなく、新しい部のリーダーとしてやっていけると思った。
 だというのに。
 そんな鳳の言葉への宍戸の返答は、思いもよらないものだった。

「お前、…寂しいのは自分だけだとか思ってるだろ」

 語気の弱さに驚いて思わず首をめぐらせた先で、それとは真逆の強い視線に出くわして、そのまま体を動かせなくなる。

「え、と、それって宍戸さんも、寂しいってことですか」

 しどろもどろの間抜けな質問に、宍戸は「当たり前だろうが」と視線を外さないまま小さく溜息をついた。

「2年半、ここでテニスしてたんだぜ?その間に色々…あって、それが今日で終わった。それでまったく感傷にひたんねぇヤツがいるかよ。跡部の野郎もそうだったんだろ、多分。知らねぇけど、だから最後まで残ってたんじゃねぇのか」

「そうですね」と頷いた鳳が、落胆のような安堵のような複雑な気持ちでいたことに、宍戸は気付かなかったようだった。立ち上がり、窓際へ寄る。その向こうにある、闇に沈んだテニスコートに思いを馳せるように。

「言っても仕方ねぇことだってわかってるけどよ、寂しいぜ。…俺はもっとここで、打ってたかった。…まあ、多分それは全国制覇してたって思っただろうけどな」
「…宍戸さん、」

 背中から抱きしめた宍戸の表情は見えなかった。けれど拒絶の意志がないことは、まわした腕が振りほどかれないことで充分にわかる。
 鼻先を埋めた髪から、つい昨日までは近しかったはずの懐かしい汗の匂いがした。

「俺だって、お前と同じなんだよ。…俺だって、まだ、お前と」

 ごくごく小さな声で呟かれた宍戸の言葉尻は、また堰を切ってあふれ出てきた涙の所為で聞き取れなかった。

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「お前、泣きすぎ…」

 あやすように背を叩かれて、まだしゃくりあげていた鳳は鼻をすすった。

「宍戸さんだって泣いてるじゃないですか」
「…泣いてねぇ」
「泣いてますよ」
「お前のがうつったんだよ」
「やっぱ泣いてるじゃないですか」
「……泣いてねぇ」

 強がる声は鼻声で、それがどうしようもなく愛しくて、抱きよせる手に力が入る。

「宍戸さん、キスしたいんですけどいいですか」
「…鼻水拭いてから、だ」

 宍戸が普段なら絶対に見せないだろう、寂しい、という言葉も、涙も。
 知っているのが自分の他に、窓の向こうの月くらいなのだと思うと少しだけ、気分が良かった。

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間宮さんのところのTOP絵を見てたら思いついたお話。
跡部の名前が出てるのは愛です、愛。
ちなみに跡部の弱さを垣間見るのはもちろんあの子。