共犯者たちの腹のうち
扉を開けると、まず足元にロイヤルブルーのマントが落ちていた。瀟洒な刺繍の施されたそれの端をブウサギが食んでいるのを見て、仕立て屋も可哀想にと思うが拾うことはせずに飛び越える。
と、今度は上等な皮のブーツが。続いて白いローブ。その向こうに、崩れた本の下敷きになって揃いの白いズボン。どちらも最高級のシルクに、シルヴァーナ大陸でしか採掘されないミスリルを紡いだ糸が織り込まれている。
そんな美術館にでも飾っておきたい芸術的な品々を、脱皮するように投げ出した中身はと言えば部屋の一番奥、とうとうと流れ落ちる滝の美しい姿を臨む窓の傍でうつぶせに転がっている。その周りを、愛玩動物たちが労うように(実際には餌をねだって)囲んでいた。
部屋は荒れ放題で強盗殺人の現場と見まごうばかりの光景だが、ジェイドにとってはそこそこ見慣れたものであるのでさして感慨もない。
グランコクマへ戻り、立太子した頃から…いや、多分ケテルブルクにいたころからこうだったのだろう。実際にあの屋敷の中に入ったことは一度もないが。
「ジェイドか……?」
問う声がくぐもっているのは頭をクッションにつっこんでいるからだ。
はいそうですよ、と答えてジェイドは主の傍に立った。
着替えるだけの気力はあったのかかろうじて綿の上下に着替えた彼は、そこで力尽きたらしくもう重たげな体を臣下に向かって起こす気もないらしい。
「いやー派手な式典でしたねえ」
嫌味たっぷりな声にもああだのううだの単語になっていない返答しかない。常ならば嬉々として軽口に乗ってくる性格だけに、その疲労が見て取れた。
「……死にそうに疲れた……」
「それはあれだけ派手なパフォーマンスを組まれれば疲れもしますよ」
宮殿の前庭に集まった民衆の熱狂が、今も耳の中でこだまするようだ。それを片手一つで収めてみせて、朗々と今自分がその場へ立っていることへの謝辞と、これからに関する自らの意思を述べてみせた。
譜術によって第三音素の力を借りたその声は、街と宮殿の境を守っていた兵士にすら届いたと言う。
彼の声に小細工をしたのはジェイドだが、うけた人間に弊害がない術でもない。具体的には体内を流れる第三音素を無理やり引きずり出して使うために疲労が大きいという点が欠点なのだが、それをものともせずに演説を終えた後貴族たちとの晩餐会に主賓として最後まで席を外すことのなかった彼はそれだけで敬意に値する。
体は何ともありませんかと気をつかってみるが、主はそれより顔が疲れたと言った。
「民衆への演説は辛くないさ。俺が素でいても好いてくれる連中だ。それより朝と夜だ朝と夜。朝は朝でお前ら軍人の前で小難しい顔でダアトの連中から冠を戴いて夜は夜でへらへらと貴族連中のおべんちゃらに付き合って。今日だけで一生分の顔芸したぞ俺は。誰だ一日でこれ全部やるとか計画したの」
「私の記憶が正しければ紛れもなく陛下ご自身ですが」
「……ぐー」
「寝たふりしないで下さい」
その分だと体力はまだあるんでしょう、と誰も見ていないのをいいことに足先でピオニーをひっくり返すと、なるほど目の下に隈ができている。明日は顔面筋肉痛か…、と憂鬱げに胸元のクッションを顔まで引き上げた。
「寝ないで下さい、その明日の予定を確認に来たんですよ私は」
「必要ねえだろうが、明日は朝からグランコクマの居住区に出て今日宮殿へ来られなかった奴らへの顔見せ、それからその足で明後日のルグニカ中部の訪問に向けて移動だ。早くエンゲーブのブウサギが見、」
「結構です、なお明日の逗留地はセントビナーですからそのつもりで」
げぇ、と不満の声をあげる彼を信用していないわけではない。即位したばかりの皇帝が行方不明になったと思ったらエンゲーブのブウサギ牧場で発見されたなどという嘆かわしい事態になったりはしないだろう、が、しかし、彼が夜の間に行って戻るくらいならと抜け出しかねない性分であることも否定できない。
セントビナーなら、ピオニーにとっても恩のある元の元帥マクガヴァンの膝元だ。滅多なことにはならないと踏んでの、彼をよく知る者の進言である。
「……明後日の夜にはこっちにトンボがえってケセドニアに書状出さなきゃなんないってのに……」
ああブウサギ、と嘆くのを聞こえないふりで、ジェイドはそこまでわかっていてくださるなら結構ですと退出しかける。
その背中を、今の今までとはまったく違う声音が引きとめた。
「ジェイド」
「…何でしょうか、陛下」
唐突にスイッチが切り替わったらしい主の声に、す、と背筋が伸びるような思いでジェイドは振り返った。
先ほどまでは確かにあった疲労の後が影をひそめて、迷いのない青い瞳がひたと見つめてくる。
「ケセドニアへの使者が立ち次第、お前を大佐に任ずる。第三師団を預けるからそのつもりでいろ」
「……やれやれ、もう出世ですか……」
しかも一師団の指揮は大佐という地位の権限を超えている。もちろんピオニーはそのことを知った上で言っているのだし、それが主の意向である以上ジェイドに拒否権はない。
「不満なら少将まで引き上げてやろうか、今のお前なら誰も文句は言わんだろう」
「さすがにそれは文句は出ませんが各所に不満は募るでしょうねぇ」
将軍の地位は丁重にお断りしますよ、と返すと、そうか、とだけ呟いてピオニーは再び横になった。真っ先に寄ってきたブウサギを一匹、クッションの代わりに抱き上げてぶつぶつと何か言っている。
「それにしてもお前の上にもう少し素行のいい奴をつけとかなきゃ煩いだろうなぁ……誰がいいか…」
「陛下、そのお話は」
「ああ、そうだった、セントビナーから戻ってから。いや、ケセドニアの後だ」
急いていた自分を戒めるように、数度その文言を繰り返す。暗に素行が悪いと言われた臣下はこれまた素行のいいとはいえない皇帝に憤慨するでもなく、小さく息を吐いた。
「……道のりは長いな、ジェイド」
「まったくです」
しかもまだ始まったばかりだ。
肩をすくめたジェイドのため息が聞こえたのか、遠い感慨とともにそう言ったピオニーの表情は抱え上げられたブウサギの向こうにあって見えない。
だがどうせ、海のように深い青の奥に強い決意を宿した目でいるのだ。
よく言えば天衣無縫、悪く言えば傍若無人。その実自分がそうあるために影の労苦を惜しまないこのばか正直な親友に、立ちはだかる敵など結局のところないのではないかと思ってしまう。それはいつか抱いた幼い憧れの延長であるのかもしれないけれども。
「どうでもいいけどお前に陛下とか呼ばれるの、何かキモいなぁ」
「お気になさらないのが一番ですよ、陛下」
もう随分と前から、二人でいるときでも彼の名を呼んだ覚えがないというのに未だピオニーはそういうことに固執する。もっとも、それが軽口だという互いの了承の中でだけ、だ。
「……別にいいんだけどな、お前は俺のこの現実を口にしてるだけなんだし」
「陛下、」
「けどいつか、俺の望みが叶ったらお前そのときはまた俺の名前、呼べよ?」
だからそれまで俺の側にいろ。
そんなものがあるなどと思っていなかった幼い頃からの絆と、今ある信頼。形のないものを、さも強いつながりのように言える彼が眩しいと感じたこともある。
が、今は少なくとも、親友のその望みを拒否するつもりはジェイドにはなかった。
「陛下のお心のままに」
従順な臣下の言葉の後ろに、せいぜい長生きさせてくださいね、などといらない言葉を付け加えられるのは、本日づけで「皇帝陛下の懐刀」に任ぜられたジェイド、その人だけなのだ。
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