リメンバー・ミー
「遅いぞ、ジェイド」
聞きなれた声がひどく遠いのは、今自ら譜術で崩した隠し扉の向こうの兵士の怒号のせいでも、傷ついた自分の体が聴覚を半ば諦めているからでもなく、ただただ彼の声が常なら考えられないほどに弱く小さいせいだった。
「……酷い有様ですね、陛下」
「ああ、まったくだ。奴ら敵味方も見ずに音素爆弾で吹き飛ばしやがって」
だがそのせいで幾重にも重なった肉壁に彼が助けられ即死を免れたのも事実なのだろう。そうして彼を守るように真正面の扉は崩れ落ち、新たになだれ込んでくるキムラスカ兵を阻んだ。
謁見の間の扉を開けたときにまず覚えた違和感は、玉座に向けて敷かれた絨毯の色なのだと二、三歩踏みしめてから気づいた。マルクト兵もキムラスカ兵も区別なく、その両側に積みあがった死体から、またおそらくその一部であったろう肉片から流れ出した血が、本来マルクトを象徴する青を基調としているはずのそれを赤黒く染めあげているのだ。
そうまでなってさえ吸いきれなかった血だまりを跳ね上げて、ジェイドはピオニーの声がよりよく聞こえるようにと傍に寄った。一段、二段。玉座を掲げる階を上る。
「御前に」
「……ああ、」
気だるげにジェイドへと向けられた顔は、邪魔だと彼が蹴り落としたキムラスカ兵の死体とそれほど違わない色をしていた。
鈍る思考の裏側で、いつも通りに状況を分析しようとする理性を押しつぶす。
「伝令にやった奴は、どうした」
「……死にましたよ、もとより前線を駆け抜けるには無理のある怪我でした」
「そうか」
無茶させちまったと自嘲する彼が視線を下にやるので、それにつられて目を向けると未だ止まらない血がひたひたと流れていくのが目に入った。
彼も第七音譜術士だったと、失念しがちなことをジェイドは思い出す。
生命を維持するのに必要な血の量をとうに流しきっているはずの彼の体がまともとはいえないまでも未だ動いているのは、彼がわずかばかり残された力を使って体内に第七音素を取り込み、破損した内臓のいくつかを補って維持しているからだ。幸い死体の間に転がったキムラスカ軍の譜業は多く第七音素を使う。故障したそれらから漏れ出す音素を利用しているのだった。
「……恐ろしい精神力ですね」
「そりゃどうも。この国屈指の譜術士にお褒めいただけるとは、」
「馬鹿なことを」
小憎らしい笑いにゆがめかけた唇は、引き連れた痛みに阻まれて別の形に変わる。忌々しげに彼が「下ろせ」というので言われるがまま玉座から抱き起こしてかかえると、さして抵抗もなく重い体が覆い被さってきた。よろめいて彼の流した血の上に膝をつく。肩口に生温かい感触がぬるりと広がって、また新たに血が流されたことを知った。
彼がこうして死にゆくのを知りながらなお、感情は凪いだままだ。今ならまだ間に合うと、過去に封じたはずの思考さえ頭のどこかを巡っている。
「そこに転がってる奴が面白いことを言ってたぞ」
そんな思いを断ち切るように、かすれ声が耳元で囁いた。
「これは、預言に詠まれたことなんだそうだ」
ユリアの預言に従い穏やかに暮らせば訪れるといわれる、オールドラントの繁栄。だがその繁栄を享受する新しい地図の中に、マルクトという国はないらしいと、彼は言う。くぐもった声は痛みと共存する笑いに震えていた。
「喜べと言うんだその男は。俺は、俺の国民はその繁栄の礎になるのだと」
そんなことで彼を殺めようとした今は物言わぬ死体に、下らないと吐き捨ててしまいたかった。もっともピオニー自身は既にそうしたのだろう。だから男は死体になった。
俺は俺の目で見られる世界にしか興味がないと、男を切り捨てた姿が目に浮かぶようだ。
「俺は預言に抗う不信心者だ。だが、やはり、預言は成っ、た」
もう動かすだけでも辛いだろう腕が、ジェイドの肩を押す。体重を預けていたジェイドの肩から、腕の中に彼は崩れ落ちるよう仰向けに落ちた。首の据わらない赤子にするように片手で頭を支え、空いた手で彼の唇をぬらす血を拭ってやる。
「男の言うとおり、マルクトの玉座は最後の皇帝の血で染まった。預言は成ったと男は言ったよ、断末魔にな」
茫洋としたその目は、玉座を染める自分の血でも見ているのだろうか。
「だがまあ、そんなことはもうどうでも、いい」
ゆるりと首をめぐらせて、もはや焦点を結んでいるのかも怪しい目がジェイドの顔を見上げてくる。
「これが最期と知ったから、俺はお前を呼びに行かせた」
もう時間も残されていないだろうに先を焦ることもなく、先刻作り損ねた笑みを浮かべて彼は言った。
「マルクトの皇帝はお前がたどり着くより先に死んだ。この国は滅びゆく」
そうだろうジェイドとこれまで幾度も彼がそうしてきたのと同じ言葉で同意を求められて、それを否定する言葉を見つけられない。彼が自分に同意を求めるとき、それはいつでも決定事項だった。
「生き残った民がケセドニアでもダアトでも、どこでもいい、逃げ延びてくれるならそれで、いいだろう」
だから、と続けようとして彼はまたうめき、言葉を詰める。血が、支える腕のグローブを抜けて手を染める。まだ温かい。彼は、ピオニーはまだ生きている。とうに、彼の言葉どおりジェイドがここへ来るより先に消えるはずだった命の灯を存えさせて。自らの死と、国の滅亡を受け入れながらなぜ彼はそうするのかと。
「最後にお前に会わなきゃならんと思ったからだ」
苦痛ばかりを長引かせるだろう選択への困惑が、まさか顔に出ていたはずも無い。だが問いたいと思う気持ちを見透かすように、ピオニーは答えた。もとより彼は人の感情の機微に聡い。ことジェイドのそれに対しては、彼以外の人間がまったくその本意を見抜けないだけに際立って鋭く見えたのだった。
彼以外などもうここにはいないなと物思いに沈みかけたジェイドの頬に彼が無理に持ち上げた手が触れて、ずるりと血で滑った。
「気色悪いことをしないで下さい陛下」
「……陛下はやめろ、もう死んだ」
「……ピオニー、」
「それでいいんだよ、ここにいるのは、俺だ。本当は、こんなとこでお前に呼ばれたい名じゃなかったけど、な」
そういいながら彼が浮かべる、本当に名を呼ばれたかった人の面影は今も変わらず妹のそれなのだろうかと考えかけて、やめる。彼女の安否すらもう今は確かめる術がない。彼女の名を口に出せばまた、彼はどうせ寂しげに笑うのだろう。
「ああ、もうあんまり俺に喋らせるなよ」
ゆるく息を吐いた彼の、このあとの言葉が、真に末期の言葉になるだろうと悟る。執拗に頬に添えたままにしておきたがる手を好きにさせようと、体を床に下ろして空いた手でその腕を支えた。
「お前はどうせ、まだしぶとく生き残る気でいるだろうから」
そう言って彼は目を閉じた。もう光の宿る彼の瞳を見ることは無いのだと、思った。
「最後に言っておく」
温かい血がジェイドの頬を伝い、既に血に濡れた彼の腕を伝い、広がる。
「俺を忘れるな、俺のこの血を忘れるな、今お前の腕の中にある温もりが失せるその感触を忘れるな、俺のこの、」
ギャア、と一声鳴いた鳥が飛び立って、ジェイドは目を開いた。
まだ目覚める力があったのだと、自分で感心する。病に冒された体はもう動かすことすら億劫だ。歩くことがままならなくなって朽木の下に倒れこんだのは何日前なのかも、かすむ思考に邪魔されてもう判然としないと言うのに。
重い目玉を動かして見渡した周囲に、倒れこんだときとは別の風景を見る。
それは生物だったものの、死骸だった。草木に紛れる色柄の毛皮を引き裂いたのは肉食の獣だろうか。その目玉をくりぬいたのは先ほど濁った声を上げた鳥だろうか。腐り落ちていく体を少しずつ運んでいくのは、もはや目で見ることのできない姿の虫たちだろうか。
「わかっていますよ」
あれから今まで、何度でも繰り返し見た夢の姿に、呟く。
「私は貴方を忘れられませんでした、結局こんな、最後まで」
あれは彼が好きだった生き物だと、そんなものにまで彼の残したものを感傷的に重ねて空を見上げる。
忘れるなと言う言葉はまるで呪いだ。
貴方が生きていればと思うたび、貴方がいないことを思い出して止まりかけの心臓が痛む。
「あなたが教えたかったのは、これでしょう」
俺の死を悲しんでいる、今のお前を忘れるな、一生だ。
あのときもう動かぬ彼の頬に落ちたのは、彼の血ではなく自分の涙だったと、記憶している。
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