君は前だけを見ていて、僕のことを追わないでいて


雪が路に落ちる音までも聞こえそうな静寂の中、子どものはしゃぐ声を聞いたような気がしてネフリーは机に預けていた頭をもたげた。
もちろん、気のせいだとわかってはいる。
壁掛け時計はまださほど遅い時間を指しているわけではなかったが、シルヴァーナ大陸の夜は長い。日の光はとうにロニールの向こうに消えて、窓の外の明かりといえば街灯と、民家から漏れ出る光。
 まして一年のほとんどを、重たげな雪雲に覆われて過ごすケテルブルクだ。日が落ちれば気温は一息に下がることをここに暮らす子どもたちが知らないわけはない。広場で走り回っていた彼らも今は穏やかな暖炉の火の前で、まどろむような時間を過ごしているはずだ。
 ネフリーはため息をついて立ち上がり、窓の側に寄った。やはり路に人影はない。羽根のような雪片だけがただただ、石畳に降り積もってゆく。
(夢だったのかもしれない)
 あの声も。
 そう、今朝硬い面持ちで玄関に立っていた、夫の姿も。全部が。
 それだって、そんなわけがないと知っているけれど。


「アクゼリュスが隣国の救援隊もろとも消滅した、らしい。ネフリー、たしかカーティス大佐があそこに、……」


 そこまで言って迷うように口をつぐんだ夫の言わんとしていることがわからないネフリーではなかった。
 帝都の名家に養子に入った兄の近況はいつでも、本人から知らされるより先に街の噂でもたらされた。ケテルブルク出身の『バルフォア博士』の輝かしい戦功と、ほの暗い噂として。
 皇帝の命を請けて和平の使者として立ち、これを成してアクゼリュス救援へ向かったという話を伝え聞いたのはついこの間の話だ。
「お兄さん……」
 泣きはしなかった。そのときも、今も。
 2年前、結婚式のときの兄はどんな姿をしていただろうかと、窓の向こうに思い起こそうとしても上手くいかない。ただ昔と何も変わらない、心の読めない笑みだけが浮かぶ。
 悲しい、という感情が浮かばないのは、彼が軍人だからいつか「そのとき」が来ると覚悟していたからでも、20年以上離れて暮らしているせいで肉親の情が薄れてしまったからでもない。
(私は昔から)
 思考の先にある酷薄さに自嘲の笑みを漏らしかけたとき、唐突に帝都に住まうもう一人の幼馴染の顔がネフリーの脳裏に揺れた。
(あのひとは、どうしているのだろう)
 それは、予感のようなものだったのかもしれない。


 
「ネフリー、ちょっといいか?」
「……あなた」
 控えめなノックに応えると、夫は気遣うような表情で姿を見せた。着たままの外套にはまだ雪の欠片が残っており、帰宅したばかりなのだと知れる。
「ごめんなさい、考え事をしていたから気づかなかったのね」
 出迎えられなかったことを詫びるネフリーに、彼は首を振って見せた。
「まだ仕事中だったのか?今日は無理をしない方がいいだろう」
「…そうね、今さっき書類に目を通し終わったところなのだけど」
 今日は早く休むわ、と付け加えると、曇りがちだった夫の表情が少しだけ和らいだ。
「ところで、何かご用だったの?外套も脱がないで」
 ああ、と照れたように笑う。行方の知れなくなった肉親を案じる自分を、心配して真っ先に顔を見にきたのだとわかるその表情に、ネフリーも少し頬を緩めた。
 胸の奥が、日を吸ったように温かい。
「ありがとう、あなた」
「いや、その。そうだ、それもあるんだけど、今そこでグランコクマから来たっていう商人から手紙を預かって」
「手紙?」
「君に渡してほしいって。彼も頼まれたらしいんだけど手紙には差出人の名前も書いてなくて」
 心当たりがあるかと差し出された手紙には、なるほど夫の言うとおり表に「ネフリー・オズボーンへ」とあるほかに何も書かれていない。訝ってしばらく封筒を見つめていたネフリーは、そこに書かれた自分の名前に見覚えのある癖を見つけて息をのんだ。
「これ、グランコクマから?」
「え、ああ、そう聞いたけれど。どうかしたのかい?」
「……あのひとだわ」
 要領を得ない夫に、仔細を説明する余裕がない。差出人のこだわりのなさを明確に表した、ごくありふれた封筒を破くことのないように、ネフリーはそっと封蝋を剥がした。
 聞こえるはずのない、あの頃の自分たちの声を、耳の奥に聞いた。



「短い手紙だね」
「……そうね」
 後ろめたいのは自分だけだろうかと、ネフリーは思う。はらりと一枚だけの手紙に目を通した夫は、それが誰からのものかを知っても穏やかなものだった。
 マルクトの出身であれば、現皇帝が幼少時代を其処で過ごしたこと、そして初恋をそこに住む少女に捧げたことを噂に聞かない者は稀だ。尾ひれがついた噂は、いつしか叶わなかった恋の美しくもの悲しい物語として、ひそやかに囁き交わされている。さすがにその少女が彼女であることまでが市井に伝わることはなかったが、ネフリーの夫になった彼が、本当のところをを知らないはずはなかった。
 差出人の名を告げたあと、夫にその手紙を渡したネフリーは自分のその行動がどこか言い訳じみて思えて息を吐いた。まだ少女の頃見慣れてしまった筆跡に、今さら僅かばかりでも動揺したことを責めたくなる。
 もう、あの頃の想いなど心の奥底に沈めたはずなのに。
「陛下は今も、君を案じてくださっているんだね」
「……そうね」
「幼馴染か…少し羨ましいよ」
 何がだろうかと思う、ネフリーの頬をいつしか伝っていた涙をぬぐい、額に口づけると彼は部屋を出て行った。去りぎわのその背中に、ネフリーは
「それでも私は、今こうして涙を拭いてくれる貴方がここにいることが、嬉しいのよ」
と、声をかけた。
 それに対する優しい返事はドアの向こうに消える。
 今ぬぐわれた涙が誰のための、何のための涙なのかもわからずに、ネフリーは手の中の封筒を、破いてしまいそうなくらいに強く握り締めた。


 あの人の隣にはいられないと、そう思ったのは、彼がいずれ「皇帝」となる人物だったからではない。
 今の夫に誓った愛に偽りなどない。大切な幼馴染の去ったこの雪の街にひとり残り、そしてここをあの頃のまま守ろうと思った気持ちに後悔など、ない。
 けれど今、窓の向こうの雪に見る姿は彼一人で。
 
 しわの入ってしまった手紙を開き、読み返す。鷹揚で迷いのない筆致は、堅苦しい書き言葉など投げ捨ててあの頃の彼の口調をそのままに、街で聞いたそのとおり兄がアクゼリュスを訪っていたこと、そしてアクゼリュスの消滅、議会の混乱を(そこだけはどこか他人事のように)告げ、最後に
「だがあいつのことだ、どうにかして生き残ってるさ」
 と、結んでいる。
 文末にも署名はなく、代わりに花押が押してある。もちろん、皇帝が公的に使うものではない。もっと私的な…ネフリーが昔、本当に幼い頃に彼に贈った物だ。兄が帝都へ発つ日、兄と兄の友人(だと幼い頃のネフリーが思っていた)二人に贈った印。硝子細工の柄に、春ケテルブルクで一番最初に咲く花が封じられたそれのかすかな重みは、思い出の中に懐かしく、残る。
 刻まれた名は彼そのままなのだが、拙い子どもの字を元に彫られたその花押から、まさか皇帝を連想する者はいないだろう。ネフリーにだけわかるように仕組まれたその署名はそういう意味では合理的なものなのだけれども。
「まだ、こんなものを残してるんですね、貴方は」
 窓の向こうの彼の影が応える。
『俺が君にもらったものを捨てるわけがないだろう』
 目に浮かぶ、とネフリーは思い、瞼を落とした。
「兄さん、生きているんでしょう」
 手紙、様々な願いを込めた響律符、……指輪。
 ピオニーからもらったものはすべて、捨ててしまった。彼が皇太子として立った日に。彼が立つと決めた日に、ネフリーも決めた。
「兄さん、早くあの人のところに戻って」
 雪の路を走った子どもはもういないと、彼が一番よくわかっているはずだ。今ここに住まうのはケテルブルク知事、ネフリー・オズボーン子爵。
 あの頃を共に過ごした幼馴染のなかで、彼の傍で生きることを選んだのは、兄だけだ。時の流れとともにあの頃と変わってゆく兄の姿を見失えば、彼はここに置いていったものを思い出して手を触れてしまうかもしれない。ジェイド・カーティスの行方が知れなくなった今、皇帝として公にではなくこんな方法でその妹を慰撫してしまうように。
(私は、思い出でいいから)
 どうか早く、と祈って。
 いくつか染みの入った手紙を、はぜる炎の中にすべり落とした。
 彼を想って泣く思い出の中の少女の涙を拭える者は、今も昔も、どこにもいない。


「よかったんですか」
「……何がですか?お兄さん」
「……いえ」
 花嫁姿のネフリーに、問うておいて口を噤むという彼にしては珍しい行動をジェイドはとってしまったのだが、何かに気づいたようにネフリーは顔を上げた。花嫁を包むケテルブルクの雪のように白いドレスのせいだろうか、それとも長く会っていなかったせいだろうか。そこにいるのは妹の面影を残しながらも別の娘のように思える。
「……私は彼を愛しています」
「そうですか」
 妹が指す「彼」が誰なのか、ジェイドにとっては曖昧だ。
「あの方なら貴方を隣に座らせることくらい、いずれは叶えたと思いますが」
「いいえ!」
 対してあまりにも鮮明すぎる「あの方」の指す先に、ネフリーは強く首を振った。さらさらと、ヴェールに飾られた雪割草の花が揺れる。
「お兄さんならわかるでしょう、あの方はもう決めたんです、あの道を往くと!だから、だから私は」
 泣いているのかと覗き込んだ彼女の瞳は、思いのほか強い決意の光を灯している。王位にいずれ就くと屈託なく言った親友の瞳に、それはよく似ていた。
「あの方の思い出の中の私だけを、あの方に残します」
 未来を彼女に約束すれば、ピオニーの選んだ道はさらに険しいものとなる。それを知ってネフリーが選んだのがこの選択ならば、ジェイドに口を挟む余地はない。
「……振られてしまいましたねえ」
 こつこつ、と時間を急かすように控え室の扉が叩かれる。上げられていたヴェールをそっと下ろして、ジェイドは花嫁に背を向けた。
「……そうそう、陛下はまた新しくブウサギを飼うことにしたそうですよ。もうこれで4匹目です。名前は、」
 言ってから扉の前で振り返るとヴェールの影でネフリーは、花のように笑った。