あの影が誘うところまで、行かなくてはならないのに
数日続いていた仕官学校と研究所の往復を一時中断して、久々にカーティスの屋敷に戻ると自室の机の上に手紙があった。
開ける前にいつのものなのかを使用人に問うと、今朝方ケテルブルクからの連絡船で届いたと言う。ジェイドが今日戻る予定であることはわかっていたので、士官学校に送りなおさずにおいたのだそうだ。もしや急ぎの御用でしたかと不安げに問い返されて、ジェイドは首を振った。
見覚えのある白い封筒は、これまでにも何度か受け取ったものだ。差出人はわかっている。
胸をなでおろした使用人を下がらせて、引出しからペーパーナイフを取り、丁寧に封蝋を切り取った。
引き抜いた便箋は帝都の女性も好んで使う薄様のもので、ませたことをし始めたものだと少し驚く。
考えてみればもう、妹も12になるのだ。
自分が12の歳に帝都に来たことを思えば、と記憶の中の自分に妹の姿を重ねかけて、ジェイドは頭を振る。
妹と自分は、比べるには違いすぎた。
そう感じたのは、随分昔の話だ。
カーティスから養子の話が来たとき、両親は息子を手放すことを悲しむどころか喜んでいたように思う。
それも、好奇心だけで得体の知れない技術を次々と生み出す息子を厄介払いできる安堵からきたものだ。
きっぱりと、請けたいと言ったジェイドに二つ返事で了承した両親のそんな考えを当時からジェイドは気づいていたが、別にそんなことはどうでもよかった。
故郷を、12年生まれ育った家を捨てることよりも成したいことが、あのころは確かにあった。
妹も両親と似たような反応をした。もっともあのとき妹はまだ7つで、両親のように兄の性質を気味悪がるというよりはもっと単純に、時折魔物の返り血を衣服に残して帰宅する兄に怯えていたのだろうと思う。
帝都へ向かう連絡船を見送りに来た彼女は、両親の後ろに隠れるようにしてじっとこちらを見ていた。
同じく見送りに来ていた幼馴染(どちらかといえば不本意な方の)に促されて初めて、彼女は両親の影から出てこちらに近づいてきた。ガラス玉のような目は、他にもいる帝都へ発つ人々の家族のそれとは違って名残惜しさなど一つも無く、ただおおよそ子どもとは思えぬ平板な無感情さで手を差し出した。
その意味を握手と取り違えたジェイドが差し出し返した手に、彼女は歯がゆそうに首を振り、手を開くように促した。一刻も早くこんな場所からは立ち去りたいのだと言わんばかりのもどかしげな仕草を皮膜一枚隔てたような無感動さで見ながら天に向けた手のひらの上に、ガラスの欠片が落ちた。
途端、妹は転がるように両親のもとへ駆け出した。
ガラスの欠片に見えたそれは花押で、軸に封じられたのと同じ花の意匠でジェイドの名が刻んであった。その少し前、まだあの人が生きていたほんの少し前に、私塾の教室で少女たちの間に流行った玩具だ。もちろん公的な手紙には使えないし、用途もないとポケットにしまいこんだ。
再び両親の影に隠れた妹を見やると、彼女はいるはずの誰かの姿を探すように人ごみに目を凝らしていて、それきり目が合うこともなかった。
そんな風に、別れの言葉すらもなく別れた妹から初めて手紙が来たのはそれから二年がたった頃だ。
いや、正確には妹からの手紙というと語弊がある。今と同じに士官学校から遅く戻ったジェイドに、養父から手渡された手紙の送り主は確かに妹だったのだけれども、中身はそのほとんどが別の人物からの手紙だった。
あの日、見送りには来なかった彼からの。
来なかったのではなく来れなかったのか。手紙ですら、今もこうして妹の名を借りなければ出せないありさまなのだから。
今日も妹からの便りは短い。ケテルブルクに今年も短い夏がきたこと。ジェイドの噂を街で聞くことがあること。両親のこと。同封の手紙のこと。そして、その手紙の主のこと。一枚きりのその手紙を読み終えると、ジェイドはそっとその一枚を引き出しにしまいこんだ。そこには、今までに妹から来た手紙が封筒と分けて入れられている。気づけば、それらはいつのまにか引き出しの半分の嵩を占領していた。
とん、と軽い音を立てて引出しを奥まで戻し、視線を残りの紙束に戻す。
最近では妹の字の方が、七つも年上の彼の字よりよほど大人びて見えるようになった。
妹が使ったものと同じ薄様に明らかな男文字が並んでいる様は何とも滑稽だ。だが本人の字はそんなことはお構いなしに大雑把な形を連ねている。むしろ紙が薄すぎて彼には書きにくかったのかもしれない。所々インクが滲んで字が潰れかかっているのは、ペン先を紙にひっかけたからだろう。
ゆっくりと目を通す手紙の内容のほとんどは妹のことだ。
彼女が、自分ではジェイド宛ての手紙に書かないこと。
例えば、両親の勧めでケテルブルク郊外の学校に通い始めたこと。入学するなり利発さと可愛らしさで(ここは若干彼の主観が混じっている)学校中の注目を集めているらしいこと。
彼女の学資のほとんどは、カーティスからの援助で成り立っていること。それを彼女が少し気にやんでいること。
屋敷に監禁同然で閉じ込められているはずの彼がどうしてここまで妹のことについて詳しいのかは知らない。ただ、屋敷から抜け出すことと、人の心中をそれと悟られずに弾き出すことは昔から彼の得意中の得意だった。口の軽いメイドや、出入りの商人でもいれば瞬く間に彼の知りたいことは彼の耳に入るのだ、今となっては。齢十八にしてそんな自分の能力を自覚し便利に使っているらしい友人にはおそらく指導者としての素養があるのだろうが、それを感じているのは今のところジェイドだけだ。そしてジェイドにとってそんなことはどうでもいいことだった。何より彼自身、彼のそんな能力を妹以外のために生かすつもりは毛頭ないようだったから。
初めての手紙で、彼は時候の挨拶よりも何よりも先に「ネフリーに手紙を書いてやれ」と書いた。そのとき同封されていた妹の手紙は手紙と言うのもためらうほど短かったのを覚えている。
今も引出しの一番奥で眠っているだろうそれは、「お兄さんお元気ですか、私もピオニー様も、それからサフィールも元気です」
それに彼女の名前がたどたどしい字で書かれているだけの手紙。
あきらかにピオニーが手紙を書くためだけに無理やり書かされたように見えたそれに返事を書くつもりはさらさらなかった。いや文面云々と関係なく、離れて以来興味の薄れてしまった故郷に手紙を送ろうという意思はもともとなかったのだ。
しかし彼の身分を思えば仕方の無いこととはいえ妹にこんな面倒な役回りを押し付けたあげく手紙を書いてやれなどとしゃあしゃあと言ってのける友人を詰ってやりたくて、妹のそれと同じくらいにそっけない文面の返事と一緒にいくらか嫌味を書いて送った。
今思えば、その時点できっと、あの男の手のひらの上だったのだ。
しばらくして再び届いた妹からの手紙は、初めて来たときよりも目に見えて長く、のびのびとした言葉を綴っていた。記憶にある怯えたような妹の影がそれをどんなに否定しようとも、その手紙からは何よりも鮮明に、自分からの返事を待っている妹の姿が、知れた。
以来不定期にではあるが頻繁に、妹との手紙のやり取りを繰り返している。カーティスの家はジェイドがそうして少しの郷愁を覗かせることに対して特に不満もないようだった。家に帰る時間すら惜しんで譜術研究に没頭する期待以上に出来のいい養子が、そんな手紙ごときで揺れるとは思いもよらないのだろう。
『お前、里帰りしないのか。ネフリーが待ってるぞ』
長い手紙の最後あたりに目をやって、ジェイドは一人眉根を寄せた。さすがにもう、その手に乗るつもりはないし彼も乗ってくるとは思っていないだろうが。
「わかってるはずだろう、戻れないって」
瞼の裏に焼きついた幻が笑う。あの人を取り戻さない限り、戻る場所などないと。
けれど故郷の雪を思わせる真白い封筒が机の上に置かれるとき、その封筒を開けるとき、返信の最後にあのとき妹から手渡された花押を押すとき。ジェイドは確かに、あの頃に、故郷に戻りたくなる自分を感じていた。
妹の無邪気な言葉はともかく、彼は離れていても相変わらず自分を惑わしてばかりいる。
苛立ち紛れに無意味に多いその紙束に火をつけて、ジェイドは妹に返事を書くべく暫く使っていなかったインクにペンを突き入れた。
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「お兄さんからの返事はいつも私への方が長いのね」
窓越しにネフリーが怒るので、ピオニーは笑った。
「そりゃお前、ネフリーは妹だしな、あいつもお前の方が可愛いだろうよ」
「でもピオニー様はあんなにたくさん書いてるのに。それに、お兄さんたらひどいのよ、ピオニー様からの手紙、全部燃やしてしまってるって」
「おーそりゃ冷てぇなー。もう冬か、やっと少し暖かくなってきたってのに。じゃあ俺もあいつからの手紙は燃やしちまおう」
ええ、と目を丸くするネフリーの前で、小さく第五音素を集めると、たった一枚の薄い便箋はいとも簡単に灰になった。白いそれらは窓枠に、雪のように薄く降り積もる。
どうして、と自分への手紙を握り締めるネフリーの頭を、手を伸ばして撫ぜた。
「いいんだよ。もともとネフリーの手紙に便乗させてもらってるだけだし。けどほんとに酷いぞお前の兄貴。俺への返事は一言だけなんだ」
聞きたいか、と問うと、ネフリーは怪訝な顔をしながらも頷く。
「私は忙しいから会いたきゃ自分がさっさとこっちに来い、ネフリーも連れてくればいい、だってさ」
少なくともあと二年はかかるなあ、と呟いたら、二年経ったら?と彼女が言うので、ジェイドにやり返されたと舌打ちをした。
可愛い妹に会いたくないわけではないらしい幼馴染に、もうちょっと素直になれよと言ってやりたくて。
約束は出来ないけれど、と付け加えた2年後の帝都行きの話は、まだ幼いネフリーをひと時喜ばせるには充分な提案だった。
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