*It's our daily life*
それは爽やかな五月の朝に響き渡ったのであった。
「って」
と、突然、菊丸の隣で制服に着替えていた海堂が目を押さえた。
そのまま強く擦り始める。
「どしたの海堂〜? 何か入った?」
「……まつげ、が」
――ああ、それはイタイ。
「チクチクするよなーまつげって」
思わず自分もその感覚を思い出して身震いする。
「でもあんま擦んない方がイイよ〜? 余計痛くなるって!」
「そうだよ海堂、擦らない方がいい」
海堂の横にいた乾も声を揃える。
「眼球を強く擦ると病気になることがある」
「うわ、乾が言うと説得力ある〜」
しかしそうは言っても痛いものは痛い。
海堂はいつもの三割増しで眉間のしわを深くしている。
「涙で流し出すのが一番安全だ。そっと目を閉じてごらん、海堂」
海堂の前に回り込んだ乾がそう促す。
痛みには勝てないのか海堂も素直に目を閉じた。
話し掛けた乾の背が高いせいか、心持ち上向き加減な所が面白いと思った。
「どうだ?」
「……まだ」
懸命に涙を出そうと意識しているため、海堂のまぶたが時折小さく震える。
「あ……」
取れた、と言って海堂が目を開ける。
と同時に眉間のしわも緩んだ。
そのまま流れ出たまつげを取ろうと目元を拭うがなかなか取れない。
見兼ねて口を出そうとした菊丸を乾が遮った。
「どれ、もう一回閉じてごらん」
再び海堂が素直に目を閉じたのを見て少なからず衝撃を覚えた。
何と言うか、意外だ。
先程とは明らかに状況が違う。
「ん」
少し屈んで乾が海堂に顔を近付ける。
指がまぶたに触れる。
溜まっていた涙が一筋頬に流れた。
――なんか、なんか、ドキドキしてない、オレ?
「取れたよ、海堂」
「どもッス……」
潤んだ瞳のまま乾に礼を言う。
目元もほんの少し紅く染まっている。
――うわあ〜なんかめちゃめちゃ恥ずかしいっ!
これ以上見ていられない気がして中断していた着替えを再開させる。
慌ててとめたシャツのボタンを掛け違い、あたふたと全部外してとめ直しているうちに件の二人は着替えを終えて部室を出ていく。
ドアを見つめて思わずため息をついた。
「どうしたんだ、英二。今日は遅いじゃないか」
いつもは着替えの早いパートナーを案じてか、大石が声をかけてくる。
「おーいしぃ〜」
「どうかしたのか?」
「オレ今すっごいもの見ちゃったよ!」
「すごいって、どんな?」
『すっごい』を強調して大石に訴えると苦笑いをしながらも話に付き合ってくれる。
「海堂が目にまつげが入って痛いから乾が取ったらすごい恥ずかしかったんだよ!」
「……それじゃ何のことか解らないよ、英二」
一息に言い切ると困ったように大石が笑う。
「だから! 海堂が乾に向かって目を瞑ったの! 涙で目がうるうるしてたんだよ? びっくりするだろー?」
「それは目にゴミが入ったからだろう?」
「そうだけど違うんだってば! 海堂がね、なんて言うか〜、う〜」
言葉に詰まる菊丸を根気強く大石が待つが、しかしこれはいつものことだった。
「可愛かったの!」
ようやくしっくりくる言葉を探し当てて叫ぶ。
「ま、まあ海堂も目を閉じれば目元のきつい印象も変わるんだろうけど……」
「それもあるけどそれだけじゃないんだよ!」
納得を得られないのでますますムキになって叫ぶ。
「じゃあ続きは教室に行きながら聞くよ。もうオレ達が最後だぞ」
周りを見回すと既に部室は閑散としている。
外に出て鍵をかける大石を待っていると、どこからか話し声が聞こえる。
耳をすませて方角を探ると、どうやら部室の裏が会話の発生源のようだった。
何の気もなく覗き込んで菊丸は硬直した。
渦中の人物が二人セットで何やら話し込んでいるのだ。
乾の手には見なれたノートが開かれている。
「どうした、英二?」
「し〜っ!」
戸締まりを終えた大石が背後から声をかけてきたが、指を立てて制する。
自然、二人でデバガメする格好になる。
「なんだ、乾と海堂じゃないか。そんなに気になるのか?」
「だってさ、よく考えたら最近あの二人仲良いじゃん!」
「まあ、そう言われてみると、そうかもな」
実は、どうしたら『よく考えたら』ということになるのか把握しきれていなかったのだが、英二は思考回路までアクロバティックだなあ、などとピントのずれた結論を出して納得していた大石であった。
「だろだろ〜? なーんで急に仲良くなっちゃったりしたんだろ」
「さあ。でも良いことじゃないか。海堂は孤立しがちなところがあるし。乾だって実は結構面倒見が良いしさ」
「むー。それはそーだけど、なんっか納得いかないよなー」
二人の視線の先では、何やら乾が海堂にアドバイスをしているようだった。
はっきりとした会話は聞こえないものの、海堂の真剣な表情がそれを物語っている。
確かにあんなに一生懸命な後輩を見ていると、先輩としては放っておけないかもしれない。
それがたとえ他人を寄せつけないオーラを纏っている海堂であっても。
「ところで英二、今日は日直だから早く行って日誌を貰ってくるって言ってなかったか?」
「うっわそうだよ! 忘れてた。早く行かなきゃ」
ありがたい大石の指摘に飛び上がり、慌ててその場を後にする。
まだ熱心に話をしているらしい二人なんかに構っている暇はない。
それに二人の仲の良さの理由にもなんとなく察しが付いたためか急速に興味が薄れた。
駆け出してお礼の言葉を言おうと後ろの大石を振り返った瞬間、目に飛び込んできた光景。
それは。
やたら嬉しそうに海堂の頭を撫でる乾と、顔を真っ赤にして大層不服そうな表情をしながらも手を振り払おうとしない海堂の姿、だった。
――やっぱり、やっぱり、
「やっぱり恥ずかしいんだってば〜〜!!」
end
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