*そこへゆけ*
早朝、陽光はまぶしくまつげを掠めるが、空気はまだ夜の凛とした硬さを残した時間。
柳はすでに鍵の開いている部室のドアノブを回した。
ちょうつがいを軋ませてドアが開く。
いつものように先に来ていた真田はまだ制服のまま、机に向かい書きものをしている。
入ってきた柳に気付いても軽く視線の端に捕らえただけで手は休めない。
「おはよう、弦一郎」
「ああ、おはよう」
柳は真田と机の角を挟む形で椅子を引き、腰を下ろす。
正面にある横顔は同じ角度を保ったまま動かない。
「今日も早いな」
「お互い様だ」
せわしなく手を動かしている真田はそれきり黙る。
柳も特別話すことがあるわけではなく、足元に置いたテニスバッグから文庫本を一冊取り出して読みさしの部分から文字を目で追った。
二人の朝は立海テニス部の中でもとりわけ早い。
雑務に追われることの多い副部長は朝練前のこの時間をよくその処理に当てている。
そんな真田の横で本を読んで時間をつぶすのが柳の好きな時間だった。
お互い言葉は交わさない。
たまに相手をちらりと窺うことはあっても視線は合わず、ただそれだけで終わる。
ページを繰る音と紙を滑るペンの音が心地よく響く。
今日読んでいた本は話を語り終え、あとがきに差しかかっている。
もう一冊持ってくればよかったと柳は思った。
あとがきから解説まですべて読んだあと、本を閉じて真田の方を見るとまだ仕事は終わらないようだった。
どこか険しさを感じさせる目許に帽子のつばがつくる影が落ちている。
すい、と手を伸ばして普段から、殊に部活がらみでは意地でもとらないその帽子をとりあげる。
特に理由はなかった。
つられて持ち上がった硬い髪がかすかな音を立てて落ちる。
じろりと抗議の視線を寄越しはしたが、真田は特に何も言わなかった。
日常的にこの手の悪戯を繰り返している切原や丸井あたりに慣らされたからだとか、相手が柳という珍しさに驚いているというよりも。
これはすこし、疲れているのかもしれない。
「あまり……、根を詰めるな」
「解っている」
幸村が部活を離れている今、真田は実質的な部分で立海テニス部のほぼ全てを背負っている。
本人が望んでしていることを止めるつもりは柳には毛頭なく、ただ時々気遣わしく思えることがあるだけだ。
そんな時に友人として柳が掛けてやれる言葉はこれくらいしかない。
まだ思いすら告げていない柳には。
今はまだ、なのか、この先もずっと、なのかは分からない。
しかし今の二人には成さなければいけないことがある。
余計なことに気を取られることを嫌う真田に言える訳がなかった。
取り乱す顔を見たくないと言ったら嘘になるけれど。
頭の固い男だからなと他人事のように考えている自分は既に諦め始めているのではないかと自問することも最近は少なくない。
今日も真田の心配をしていた筈が、いつのまにかそちらに思考が傾きかけた柳を見透かしたようによく通る声がした。
「……今度、久しぶりに墨でも擦るか、」
手許の書類に目を落とし、忙しく何ごとか書き付けながら真田が言う。
ただ言葉にする直前、ペンを走らせる手がほんの一瞬止まったことを柳は知っている。
真田は帽子をとったままだった。
「ああ。いいな、」
どうやら諦めさせてはくれないようだ。
後悔するなよと苦いような甘いような声を胸に封じ込める。
「手伝うか」
「いや、もう終わる」
ほどなくしてペンを置いた真田はひとつ息をついて書類をファイルに納めた。
背筋を伸ばし首に手を当てて関節をぽきりと鳴らす。
乾いた音が柳の耳にも届いた。
その所為か自然と襟元に目を向けていた柳は、らしくない真田の姿に気づいた。
「ネクタイが曲がっている、」
言葉と同時に手が出ている。
このあとすぐに着替えて朝練が始まることを考えると、無駄なことをしていると柳は思った。
黙ってさせていた真田がおもむろに柳の髪に触れた。
先程の意趣返しのつもりか、一房をつまみあげてすぐに指を離す。
柳は何も言わなかったが心中は穏やかではなかった。
このままキスでもしてやろうかと不穏な思考が過ったが、それにはそのまま触れずにおいた。
頬を張られるくらいでは済まないだろう。
自分の出した演算の答えを柳は恨めしく思った。
真田が壁の時計に目を遣った。
「……そろそろ着替えるか、」
「そうだな」
いくらも経たないうちに他の部員たちもやってくるだろう。
静かな時間もあと十分程度でざわめきと活気に塗りつぶされる。
ロッカーを開けてネクタイを緩めようとしたところで真田の指はわずかな逡巡を見せた。
こういう些細なことに歓びを覚える自分に柳は笑いたくなった。
そこいらの女生徒でもあるまいに。
柳が整えたネクタイを抜き取り、ボタンを上から順に外していく真田の無骨な指先は、今はラケットを握るためにある。
それは柳も同じことだった。
先に着替えを終えた真田は帽子とラケットを片手に部室のドアを開ける。
開け放したドアの向こうに見えるのは彼らを待つ緑のコート。
柳に背を向けノブに手を掛けたまま、真田は柳を呼んだ。
「蓮二、」
いつもすまない。
そう言って普段のように帽子を目深にかぶってからコートに出ていく。
揺るぎのない大きな歩幅で遠のいていく背中を見つめながら、柳はしばらくのあいだそこを動かなかった。
end
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