*Room #202*
青春学園の合宿施設には設備の良い私立らしく個室も用意されている。
さすがに部員全員分をまかなうことは出来ないが、最上級生とレギュラー分程度には十分行き渡る部屋数である。
消灯まであと一時間。
海堂は割り当てられた部屋で普段自分では使う機会のないベッドの上に寝転んでいた。
一日を終えた心地良い疲労感が体を包む。
枕に顔を沈めたままヘッドボードに置いた手ぬぐいをチラと見上げる。
乾に貰って以来お守り代わりになっていることを知るものは誰もいない。
いや、お守りのような神頼み的なものではなく、不断の努力の証という一種の精神安定剤かもしれない。
そして何より、好きな人から貰ったものだから。
そっと手に取って胸元に引き寄せるとどうしてもただ一人のことしか浮かばない。
怪しい眼鏡で多少変人じみた、でも時々本当に格好良いあの先輩は果たして自分をどう思っているのだろうか。
乾は海堂に対して時々ひどくあからさまに他のメンバー相手とは違う態度を取る。
それも好意の方向で。
鈍い海堂が思わず自惚れそうになるほどその態度は明確だ。
しかし乾はどういうつもりでそんな態度を取っているのかを言葉にしたことは一度もない。
ごくたまに思わせぶりな言葉を投げかけるだけだ。
「変な期待させやがって……」
小さな溜息をついて海堂は目を閉じた。
ギシ、とスプリングの軋む聞き慣れない音がして海堂は目を覚ました。
うっかり寝入ってしまっていたようだ。
しかも手ぬぐいを胸元で握りしめたまま。
何だか恥ずかしくなって舌打ちをするとふと顔の上に影が落ちた。
「やあ、起きたかい?」
驚いて見上げるとつい先程まで思い描いていた顔が間近にあった。
「いっ乾先輩!?」
乾は海堂の背中側に腰掛けたまま顔の近くに手を着いてこちらを覗き込んでいる。
突然の来訪とその微妙に覆い被さるような体勢にギョッとしている海堂を見て乾の口許が少し緩んだ。
「相変わらず無防備だな。寝るときは鍵をかけないと駄目だよ」
確かに鍵は掛けていなかったが今問題にすべき話題はそこではない。
海堂は乾の腕から逃れるように慌てて体を起こした。
手ぬぐいはそっとシーツの中に隠す。
「なんでこんな所に……」
至極当然の質問に答える前に、乾はベッドの上に放り出された海堂の素足を撫でた。
いきなり触れられて動揺し、制止することも忘れている海堂にいつも以上に人が悪い声で低く囁きかける。
「もうお前もわかってるだろう、海堂?」
ドキリとした。
「……わ、わかんねえッスよ、アンタの考えてることなんて……」
いつもいつも海堂を翻弄するだけ翻弄して、そしてはぐらかしたまま離れていく。
「本当に分からない……?」
そう耳元に吹き込まれて海堂は泣きたくなった。
最初は自分の想いを伝えるつもりなんてこれっぽっちもなかったし、いつかは自分で風化させなければいけない気持ちだと思っていた。
それなのに思わせぶりな乾の態度や言葉のひとつひとつに心は勝手に期待して、焦れて。
そんな浅ましい自分は許せないというのに。
乾に後悔される存在にはなりたくなかった。
忘れようと思っているのに、忘れられないことばかり。
もうどうしたら良いのか分からない。
うつむくと涙が溢れそうだったがそうせずにはいられない。
背を丸めて小さくなってしまった海堂を見て乾がそっと溜息をつく。
「……そう、じゃあ今夜は止しておくよ」
「ッ!」
触れたままだった乾の手がそっと離れる。
その感覚に背筋が凍った。
――離れないで。
「ん?」
顔を上げて訝しむ乾を睨むと喉から勝手にひずんだ言葉が洩れる。
「アンタ……卑怯ッスよ……。こうやって何でも俺に決めさせて……」
もう自分は駄目かもしれない。
乾が、欲しい。
もはや引き返せない所にまで自分の気持ちが来てしまったことを海堂は悟った。
ベッドの上でお互い向かい合ったまま小さな沈黙が過る。
数瞬後、乾が口を開いて海堂は身を硬くした。
「海堂のことを決められるのは海堂だけだよ」
そんな優等生みたいなことを言わないでほしい。
「……そうやって自分がどうしたいか言わないで責任逃れでもするつもりッスか」
「……」
少し顔を強ばらせて黙ってしまった乾に海堂は胸が裂かれる思いがした。
違う。
乾を責めたいんじゃない。
責任だったら全部自分が引き受けるから。
だから一言で良いから、言って。
「……もしアンタが俺を嫌いになっても、俺は…アンタに責任を押し付けたりなんか……」
しねぇ、と最後まで言う前に強く抱き寄せられた。
骨が軋むような気がしたが、その息苦しさが幸せ過ぎて涙が出そうだ。
「ごめん」
抱きしめたままの体勢で乾が呟いた。
直に体を通して聞こえる声に海堂の体温が上がる。
抱きしめられるままに次に紡がれる言葉を待った。
「俺は海堂にただ諦めてほしくなかったんだ。欲しいものは欲しいって言ってほしかった。でもここまで追い詰めるつもりじゃなかった……ごめんな」
海堂の耳にためらいなく唇が寄せられた。
「好きだ」
囁かれたそのたった三文字で海堂のすべてが震える。
「遅くなってごめん。何よりも先に言えば良かったな」
海堂が首を横に振ると乾が髪をくしゃりとかき混ぜた。
しばらくその手に頭を預けているうちに結局自分は確かなことを何も伝えていないということに気付く。
今のこの熱に浮かされたような勢いに流されてしまわないと一生言えないかもしれない。
今度は海堂が乾の耳元に顔を寄せた。
「先輩、アンタが……欲しい」
「うん、全部あげるよ……。だから俺には海堂を頂戴?」
小さく頷くとそっと体を横たえられた。
海堂の顔の横に手を着いた乾が視界を覆う。
しかし唇はそのまま降りては来なかった。
「あれ、海堂。この手ぬぐい……」
めくれたシーツの隙間から乾が手ぬぐいをつまみ上げた。
手ぬぐいのことなどすっかり忘れ去っていた海堂は慌ててそれを取り返す。
聡い乾のことだ、部屋に入ってきた時の様子と考え合わせてシーツの中にあった理由などお見通しだろう。
今更ながら海堂は顔が火照ってくるのを感じた。
「本当に参るよ……」
そう呟きながら乾はそっと自分の指を絡めてきつく握り締めた海堂の指を外させる。
ついでに自分の眼鏡も外して取り上げた手ぬぐいと一緒にヘッドボードに置いた。
「そんなに可愛いことばかりしてると俺も我慢できなくなるよ……?」
乾が顔を背けてしまった海堂に自分の方を向かせると遮るものをなくした二人の視線が絡み合う。
その目で見つめられていると思うだけで肌が灼けそうだ。
一度目を閉じてからそっと開ける。
目に映るのは変らず海堂を見つめている乾だけだ。
そう、乾だけ。
「別に我慢しなくてもいい……」
思わず洩れた言葉に乾は一度瞠目してふわりと微笑んだ。
「じゃあお言葉に甘えて」
後はもう距離を縮めるだけになった二人の視線が優しくお互いを射抜いた。
もう言葉は要らないだろう。
その眼差しが全てを……。
end
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