*白百合*




 白い廊下は、南向きの窓から降り注ぐ暖かな陽の光で満ちていた。
 外来の待合席の喧騒も遠く、行き交う人も殆ど見られない。
 そのやわらかな空間の中で、己の固い靴音だけが異質だった。
 稀にすれ違った人々は、驚いたように目を瞠り、思わず足を止め、時には声を潜めて何事かを囁きあいながら、奇異の眼差しを向けてきていた。

 響く靴音が、一つの病室の前に来てぴたりと止んだ。
 何度もそうしてきたように、そこに掲げられたネームプレートを確かめる。
 手に持っていたものを右手に持ち替えて、左手で軽くノックをした。
 どうぞ、と中から声が帰ってくるのを待って、ノブに手をかけた。

 病室の扉を開いた瞬間、開け放した窓からふわりと風が吹き込んだ。
 白いカーテンを一度大きくはためかせ、その風は広くはない病室を濃密な香りで満たした。
 ベッドの上に座っていた部屋の主は、読んでいた本を置くと、こちらを見て珍しく声を立てて笑った。

「驚いたな。そんなものを持って病院に来た奴は初めてだ」
「俺も初めてだ」

 素っ気無くそう答えると、彼はくすくすと声を忍ばせて笑いながら、白い手を伸ばした。
 その指が触れた大きな花弁もまた、一点の曇りもない、純白。

「・・・・きれいだな」

 そういう彼自身、男ながらその花にも劣らぬ容姿の持ち主であった。
 抜けるように白い肌も、やさしく整った顔立ちも、その辺りの少女よりは余程可憐で美しいと言えた。
 しかし、彼の本当の姿を知っている者で、彼をそんな風に形容する者は一人としていない。
 ましてその中でも最も側に居た自分である。
 例えば彼を美しいと形容するなら、それはコートの上に立つ時の、あの眼差し以外にはあり得ない。

「柳、今日はお前一人なのか?」

 不意に顔を上げてそう尋ねてきた彼に、柳はすぐに一瞬前までの思考を捨てた。

「俺一人だ。他の皆は練習している」
「なら、お前はどうしてここに?」
「家の用事と断ってきた」
「真田に、嘘を吐いて来たのか?」

 面白そうにそう言うと、柳に向かって含み笑いを向けた。
 答えなかったが、柳のその沈黙は肯定と受け取られたようだった。

 再びカーテンが風をはらんでふわりと膨らんだ。同時に、花の香りが強く鼻腔をくすぐる。
 消毒液の匂いがどこにいても消えない病院の中で、まるでこの部屋だけが異質だった。
 柳はサイドテーブルにあった花瓶に、備え付けの洗面台で水を張り、その中に花束を活けた。
 彼は溢れんばかりに咲き誇る花を黙って見つめていたが、不意にぽつりと呟いた。

「弔花、か」
「・・・・・・」
「もしかして俺は、物凄く柳に嫌われているのかな?」

 にっこりと微笑みながら、花瓶に添えた柳の腕に彼の手が触れた。
 伝わるひんやりとした感触に、柳はほんの少しだけ眉をひそめた。

「幸村」
「冗談だよ。でも、お前のそういう表情は好きだな」

 冗談だと言いながらも、幸村は手を離そうとはしなかった。
 指先にわずかに力が込められたのを感じながら、柳はそれを振り払う事も、咎める事もしなかった。
 否、できなかった、というのが本当は正しいのだろう。
 出会った頃から、自分も、真田も、本気でこの男を拒む事などできなかった。

 幸村はそれらを全て見透かしているだろう瞳に、艶やかな笑みを乗せた。

「俺は、お前になら嫌われてもいいよ」

 それと気付かせない優しい毒を含んだ声音は、甘い痺れをもたらした。
 気まぐれに、自分にだけ見せる表情。
 惑わされはしない。だがそれが心地良いのは、否定できそうになかった。

「お前が誰かに嫌われる事なんてあるのか?幸村」
「さぁ・・・。でも、そんな風に俺を見る人間は、他にはいない」
「・・・・・」
「それが心地良いのだと言ったら、お前は変な顔をする?」

 柳の腕を掴んだ手が、ベッドの横の椅子に座るように促した。
 少しだけ躊躇ったが、結局柳はそこに腰を下ろした。幸村はそれを見て満足げに微笑むと、ようやくその手を離した。
 熱の跡がざわざわと落ち着かず、柳は無意識に、その場所にもう一方の手を重ねていた。

「幸村、体調はどうだ?」
「最近は随分良いよ。でも、やはり手術は避けられないそうだ」
「・・・・そうか」
「成功する確率は、あまり高くないらしい。復帰は難しいかもしれない、と言われた」

 淡々と、笑みさえ浮かべて幸村は答えた。
 嫌な笑みだ、と柳は感じた。だがこれも恐らくは、意図しての事に違いなかった。
 他のどの部員たちにも――真田にさえ、見せない。
 相手の心配を誘うような、そんな曖昧な微笑など。
 それが王者たる彼にはおよそ相応しくはないのだと、誰よりも理解しているのは幸村自身なのだ。

「戻ってきてもらわなければ困る」

 柳は、涼やかな表情できっぱりと言い放った。
 幸村はまるでその返答を予測していたかのように、少しの淀みもなくそれに応えた。

「立海の為?」
「あの男の為さ」

 更にそれに答えた柳の言葉も簡潔だった。
 しばしの沈黙の後、静まり返った空気を再び震わせたのは、幸村だった。

「・・・・正直だなぁ、柳は」

 そう言いながら、彼は細い体を揺すって笑った。
 柳はそれを気にした風もなく、涼やかな表情でそれを見つめた。

「知っているか?弦一郎は他の部員に、勝手に見舞いに来ることを禁じているんだ。『みだりに病院を騒がせてはいけない』とな。・・・自分は足繁く通っておいて、とんだ言い種だ」
「真田の意識では、あくまで部長である俺に逐一報告するのは当然の義務だ、という事になっているんだよ」
「分かっているさ。あの男は、いつだってそうだからな。いつだって、自分の感情には鈍感だ」

 彼は自覚していない。
 自分がどれほど幸村という男に繋がれ、支えられているのか、本当には理解していない。

「だからお前には、あの男の為に、何としてもコートに立ってもらわなければいけない」
「俺がいなくても、真田は大丈夫だよ」
「いつかはそういう日がくるのかもしれない。けれど今は未だ、駄目だ。お前にもそれは充分分かっているんじゃないのか?幸村」

 しかし幸村がその問いに答えることはなかった。
 ひどくやわらかな微笑が浮かび、形の良い口唇は美しい弧を描いた。
 それが肯定なのだろうと思ったが、柳はあえて確かめる事はなく、口を噤んだ。

「俺の為に・・・、と言ってくれないのか?」

 再び気まぐれな瞳が柳を見つめ、惑わせた。
 どこか虚ろで、同時に扇情的な紺碧のその瞳。
 これは、彼の本当の姿ではない。本当の彼が、どれほど美しく強いのか、柳は誰よりもよく知っている。
 恐らくは真田よりも。真田の側にいることを選んだ自分だからこそ、誰よりも。

「お前が望むなら、俺は拒んだりはしない」

 その微笑が彼の弱さなのだと。
 気まぐれにしか見せてはくれない。そんな形でしか見せることができない。
 散々堅物だと言われる真田よりも、実は余程この男の方が不器用なのではないかと、時々柳は思った。

 柳の頬に、すっと幸村の手が伸びた。
 袖から覗く腕は記憶にあるよりもはるかに華奢で、白かった。
 だが自分達を高みへと導く腕は、それ以外には有り得なかった。

「柳はもっと、俺の事を嫌いになればいいのに」

 まるで哀れむような口調で、小さく幸村は呟いた。
 そうかもしれない。と、柳は心の中だけで頷き、目を閉じた。
 けれど、彼のこの弱さを許す存在が自分だけだというのなら、何もかも明け渡して良いとさえ思える自分に、今更嫌いになるなど不可能だと思った。
 誰よりも真田の心を繋ぎ、縛る存在であるにも関わらず、憎むなど思いもよらない。

――――誰よりも繋がれているのは、・・・・俺?

 否定できないな、と柳は自嘲気味に嘆息した。
 愛しいと思うのとは違う。複雑なようで、その実はとても単純な感情なのかもしれない。
 何かが融け合うような、気持ち悪いこの感覚が今はただ、心地良い。


 咽ぶような、甘い百合の香りが惑わせるのか。
 清廉なその色に満たされた、歪なこの空間の中で。
 自分達は終わりのない幻を見ているのかもしれない。


 ガチャ、とドアノブが回る音がした。
 同時に、一際大きくカーテンがひらめき、一陣の風が病室の中を吹き抜ける。
 先刻までの濃密な空気が拡散していく。
 柳と幸村は、同時に入り口へと眼をやった。

「・・・・蓮二?」

 いつもは低く朗々とした声が、今は明らかな動揺を含んでいた。
 目上の者ですら竦むような、その厳しい眼差しも困惑の色を浮かべている。
 無理もない、と思いながら、その原因が自分である事を棚に上げて、柳は可笑しくなった。

「真田、もう練習は終ったのか?」
「え?あ、あぁ。明日から合宿だから、今日は早く帰らせた」
「そうか」

 ふわりと幸村が微笑むと、一度はそれに丸め込まれてしまいそうになった真田だったが、すっくと立ち上がった柳に、ハッと我に返った。

「蓮二、お前どうしてここに・・・・」

 しかし、柳はその問いを無視した。
 傍らの幸村を見下ろすと、彼は少しだけ悪戯っぽく微笑んでいた。

「もう帰るのか?柳」
「帰る。邪魔をしては悪いからな」
「心にもないことを言うんだな。嫉妬?」

 その言葉に、柳はこの部屋に来て初めて、笑みを浮かべた。

「そんな必要が、どこにある?」

 薄く刷いた微笑は、息を呑むほど艶やかで。
 それは柳が幸村の前でのみ、見せる表情だった。

「余裕だな」
「事実を言ったまでだ」

 素っ気無くそう返すと、柳は一度も真田を振り返ることなく病室を後にした。

「蓮二!」

 誰何の声に、柳は足を止めて振り返った。
 息を切らせてそこに立つ人物を見て、柳はわずかに口の端に笑みを浮かべた。

「別に見送りはいらないが」
「・・・・見送りじゃない。俺も、もう帰る」
「今来たばかりじゃないか。幸村の見舞いに来たんだろう?」
「それはそうだが、今は・・・・このままお前を行かせてはいけない気がした」

 躊躇いがちにそう言った真田に、柳は思わず目を瞠った。
 一瞬だけ幸村の入れ知恵かとも思ったが、彼はそういう事をするような男ではない。
 不意を打たれた柳は、つい忍び笑いをこぼした。

「・・・・お前は、時々妙な所で勘が働くな」
「何を言っているんだ?」
「いや、こちらの話だ」

 困惑気味の真田を見上げ、柳はくすくすと笑った。
 真田にはきっと、言っても理解はできないだろう。

「弦一郎」

 答える代わりに、柳は静かにその名を呼んだ。

「俺は、お前が好きだよ」

 その言葉に、半瞬遅れて意味を理解した真田は、サッと顔を赤らめた。
 帽子を目深に被りなおし、慌てたように歩き出す。柳はその少し後ろを歩きながら、威厳も何もない背中を見つめて笑った。

「同じ言葉を言ってはくれないのか?」
「・・・・ッ!誰が言うか!」

 低く唸るように叫んだ真田だったが、しばらくの沈黙の後、少しだけ声のトーンを落として小さく付け加えた。

「・・・・今更そんなもの、必要はない」

 頼りない声音で、そんな勝手なことを言う。
 だが柳は、静かに微笑んで、それに応えた。

「―――そうだな」

 白い部屋の中で揺れる、鮮やかな百合を見て、幸村はふっと口許を綻ばせた。
 これは確かに弔花なのだ。
 柳が幸村の為に用意した、手向けの花。

「俺は、俺の為に、もう一度あの場所に戻る」

 静かに呟いたその言葉もまた、自分自身への手向け。
 誰にも聞かれることのないそれは、花の香りと共に、風の中へと散った。

 眩暈を覚えるほどの、息が詰まるほどの、この白を貴方に。
 それは弔いの色。
 それは、貴方に捧げる誓いの色。











◇真田新様からキリ番4444記念に頂きました◇


4444、踏んでしまいました☆と言うわけで真田×柳をリクエスト。
したらば幸村までついてきましたよ!
ゆきやなぎ風味(ただし百合)が非常にツボです。
この話を頂いた後、しばらく真田、幸村、赤也による柳争奪戦で盛り上がりました。
真柳は夫婦、幸柳は百合、赤柳はエディプスコンプレックスで。
父と息子で足を引っ張り合っている内に奥さんは美貌の幸村さんに攫われかけます(笑)。
楽しませてもらいました。どうもありがとう!



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