散華を待っている
「死んだものは戻らない」
それが、吉継が己の実感から得た思想だった。
本来ならば他者の死を通して知るはずのそれを、吉継は自らの身体でもって知っている。 吉継は二度死んだ。そしてその二度とも生まれなおした。一度目は、病で死に、後にかけがえのない友人となった男の魂に触れて生まれた。死ぬ前に重ねてきた記憶は確かに身のうちに存在していたが、己のために積み上げたそれはすべて、いつしか彼のためのものになっていた。
二度目は、友のために立ったあの戦で死に、そして今。
贅沢に新しい畳を使った床を、掌で撫ぜる。
春の陽気は体のすべてで感じられた。
ゆっくりと丹念に辿ってゆけば、どこからかその感触は影の冷たさから陽の温みへと変わった。そうすると手を止めて、指先で、その境に線を引く。
今度はその線を辿り、空いた手で体を引き摺って追いかけた。その途中で柔らかな花弁を拾い、その日初めて散り初めの花の在ることを知る。
馴染んだ暗闇に目覚めて真っ先に、己の脚が使い物にならなくなっていることに吉継は気づいた。膝から下に感覚がない。目は役立たずになって久しいからあるのかどうか確かめる術は触れることしかない。触れてみれば確かにそれはそこにあったが、触れられているという感覚はなかった。
盲人である上、歩むことも儘ならぬ身の吉継に、ここがどこであるのかを自らの力で知る術はなくなった。
ただ鳥の声に日のめぐりを知り、風と花の香を頼りに季節のめぐりを知るだけの身になったのだと、間もなく知った。
「何してる?」
動かぬ脚を邪魔に思いながらずるずると這いずる吉継に、落ちてくる声がある。
縁を踏んで近寄る足音に気づきながら居住まいをただすことをしなかったのは、這いつくばって寝具から抜け出た姿をこの声の主に見せるためだった。
この部屋で目覚めた吉継を世話する者たちはみな決して自らの主を明かさなかった。
が、吉継がようやく一日の半分を目覚めて過ごせるほどになった頃になって訪れた男が誰であるかを、その声を聞くより先に吉継は悟った。
大股で歩くのに決して高くない足音。窺うような衣擦れの音。何故か知らないがいつも持ち歩いている尺を、扇の代わりに懐へ差す音。
それら全ての、ひとの立てる音色を、吉継はよく知っていた。
まず、何故、と思った。
藤堂高虎が――道を違えたひとが、あの戦場で己の命を拾うなどと。
一方で、男の感情に心当たりがないわけではなかった。
高虎と己は、恋仲、と呼ばれるような関係で、それは互いに認めるところであったのだから、せめて命を救いたいと思うのはごく自然なことのようにも思える。
ただそれでも信じがたかった。吉継の知る高虎は、そんな感傷で己の不利になるようなことはしない男のはずだった。
だが事実として吉継は高虎に生かされた。吉継には、高虎が何かとんでもないあやまちを犯したようにしか映らなかった。
そしてその認識は日を追い吉継の病がいよいよ重くなるにつれより確信に満ちたものになり、それに伴って徐々に吉継を蝕んだ。
死んでいたかったと思うことがある。
目覚めたところで、何も、愛しいと思っていた男すらも、変わってしまっているのならば。
「陽が恋しい、」
言い終わるが早いか、床で体を支えていた腕を纏めて掴まれ、無理に引き上げられた。
己の重みから両肩がうける痛みよりも、高虎の舌打ちで己の芝居が功を奏したことを知った喜びが勝る。
「無様だな、」
男から侮辱の言葉を得て口元に笑みを刷く間に横抱きにされ、すぐに下ろされた。縁に座らされたのだと気づく前に、項へ触れてくる柔らかな感触。
吐いた毒が己の唇にこびりついたのだ。擦り付ける動きに喉が鳴り、だが吉継はそれを隠して細く声を上げた。
「こんなところで」
「誰も来んさ。わかってるだろ?」
羞恥の様など芝居だと気づいているだろうに、高虎は乗ってくる。
擽る感触が濡れたそれに変わった。そこは膿んでいなかったろうかと霞の向こうの記憶を辿ったが、思い出せない。
引き摺ったせいで乱れた襟の合わせから男の手が差し入り、病の肌に巻かれた布の上から骨と肌の凹凸を弄る。
それが欲の表れと知っている体が竦み、しつこく頚椎の上の皮膚を食んでいた唇が歪むのを感じて、吉継は声を漏らした。噛み殺した声は、春の陽に融けずに残るほどに濡れている。
「乗り気だな」
揶揄の言葉は右から左へ通り抜けた。
高虎に抱かれるのが嫌いでなかった。
病身を抱く悪趣味以外にはこの男に妙な性癖はなく、身を任せていれば感覚の鈍磨した身体にも震えるだけの快楽が訪れる。吉継はそれを甘んじて享け、男の手でもって幾度となく窮みへ昇り、折れかけた身体で男を同じ境地へ誘った。
けれど、それだけだ。
「待て、」
手が性急に内股へ触れてくるのを押し留め、指を絡めて口許へ導く。弓形に撓った唇の形をなぞらせ、己の表情を知らせてから再び口を開いた。
掌に押し付けた唇からは篭った声色がかすかな戦慄きとともに漏れる。
「このままでは、いやだ」
すがるもののない手が中空を彷徨い、ふらりと頼りなく膝の上へ落ちた。誘いの言葉に添える、散る花を真似たつもりの所作は存外男の胸へ響いたようで。
動かぬ脚を掴まれて、易々と体は男に向かい合った。
男の肩に手をかけるついでにその唇を探り当て、体ごと覆いかぶさるように重ねる。
膝立ちにさせられているのだとわかるが、己の力で立っているという感覚はない。体も心も不安定に宙に浮いたまま、応えてくる男の口内を喰らった。
「……っ」
と、縷々と積もり続けた下肢の熱を薄い衣ごしに捉えられ、息を詰めれば開いた唇の間で男が笑う。そのまま形をなぞる指の動きに、そこはまもなく表皮を融かしたように濡れ始めた。耳奥で感じる血の流れが痛みすらおぼえるほど速くなる。
これは、いつ持ってゆかれるのだろうか。男とまぐわうたびに考えた。
子種を残す場所など、病の身であればもっともいらぬものと思われるのに。
未だ煽られれば煽られただけ欲は溢れ、よほど確かな形を持って男の手に落ちてゆく。
人など、一縷の尊厳を剥いでしまえば獣と同じかと。
しつこくも子を成そうとするそれを内側から他人事のように眺め、選んでそちらへ踏み込んだ。
そんな獣の体を抱く男の気は知れない。
「……あ、あっ」
もう何度目か、気の遠くなるほどの快楽を与えられて背を撓らせた。
近頃、頓に。
己を抱く男が、求める数が増えた。
ひとつ息を吐く間も病の蝕み続ける吉継の体はすでに弱りきり、一度を受け入れることも困難になりつつある。
が、疲労に気を失っても責め立てられる衝撃で目を覚ますのが常になっていた。
(昔は、)
己を内から灼いていたものが離れてゆく。
未だ膿んだままの熱に意識を奪われながらも思い起こされる記憶は、昔などと言うには近すぎるものだ。
(……貴方が望むのなら、良いのに、などと思ったこともあった)
性分か気遣いの上手かった男は、けれど殊それに関してだけ下手なところがあり、如何に吉継が望もうとも頑なに、一夜の交わりを一度と極めていた。
堪えていることが明確にわかる男の態度を吉継はもどかしく思い、気遣われることへの喜びと、気遣われねばならない己の体への嫌悪の狭間の煩悶をどこか楽しんでいた。
交媾には信頼と情が在った。
そのころから数えても、この春はまだ三度目。だがこの交じらいがもう、その名残をひとつも残していないのは明らかで、また吉継もそれを取り戻したいとは望んでいない。
ただ、男が何を思ってこんなことを繰り返すのかを、まるきり他人事のように推し量っている。
(もしかするとこの男は今、私を殺したいのかもしれない)
刃とは違う鈍いもので貫き、抉り、内から緩慢に壊して。
そう思い至ったのは、ごく最近のことだ。
嫌だと、苦しいと、泣いて繰り返しても、睦言に責めたてられ、幾度も求められるようになってからのことだ。もうどこにも力など入らずただ転がっているだけの体でも、男が執拗に貪るようになってからのことだ。
確証を得る方法はなく、ただそう思うだけだが間違ってはいないと思う。
蜜の言葉はうつろで、そのうつろには、言葉の形をなさぬほどに薄められた殺意が漂っている。そんな気がした。
吉継の考えを肯定するように、男の手が首へ触れてくる。
だが、息を塞いだのはその手ではなくて男の唇だった。落胆に小さく沈み、投げ出していた手を男の首の後ろへ廻して押し付けられた唇の合間を吸う。
こんなことは珍しくなかった。本当に締め上げられたこともある。だがそれすらも、快楽と綯交ぜにされてごまかされ、結局果たされることはなかった。
この男は望んでも望んでも、自分を殺すことができないのだと思い始めれば、男が哀れにすら見える。
男がそうできないのは、かつてあった情の残り香のせいかもしれないし、ただ、一度拾った命を再び己の手で摘むことで己の間違いを明確なものにするのが嫌なのかもしれない。
どちらにせよ、思慮深い男は己の渇望を、己の未練とこじれた矜持のせいで果たせずにいる。
では吉継自身はどうかといえば、見え隠れする男の希いを叶えてやりたいという思いはないではないが、その思い正体は単に懐古であり男と同じかすかな未練であり、それをよすがに命を絶つにはあまりにも曖昧すぎるものだった。
自ら死にたいと望むことすらできなくなっている。遠くなく訪れるそれを拒む理由がもはやないのと同様に、死期を早めることで何かを得ようとも思わなくなっていた。
死んでいればよかったと思うのに、今死のうと思わない。
そんな様で、ただ無為に息をしていた。
生きていると自分で思ってはいないものだから、男のために死んでやることはできない。
どうでも構わないと思い、他人事のように男と自分の情交を見下ろしていた。
「……、」
このまま眠りのふちに誘われてしまえばもう二度と目覚めなくともすむかもしれない。そうすればこの男の望みも叶う。
そう吉継が意識を閉じかけたとき、だがその靄を男自身が払いのけた。吉継は見えぬ目を見開き、男の顔を見た。間近で、喉が震えるのを感じる。
「石田三成は生きている」
そう、男は言ったのだ。
(ああ、)
どれほど己の体から離れてみても、その名は呪いに似て魂へ響く。
抗えず、吉継は両の眼へ涙を浮かべた。やがてそれが頬へ伝えば、男の満足げな吐息が耳元へかかる。
「なぜ、」
嗄れた喉で音を紡いでも返事はない。もとよりあると思っていなかったので、漏れ出る嗚咽を留めることもせずに繰り返した。
「なぜ、いまさら」
男が自分を囲う以上、いずれは聴かされると思っていた名だった。
その名が吉継に齎すものを、男は知っている。
だからこそ男はその名を口にしないだろうとも思っていた。その名の呪いに頼ることを、この男の矜持がそう易々とは許すまい、と。
(耐えられなくなったか、)
泣きながらも俄かに男への憐憫がわき、会いたいか、と連ねようとしたのだろう唇を塞いだ。
男が、息を呑んだ。
逃げようとするのを追い、押しつけ、舌先で湿して弄った。己の流した涙の塩辛さと、情事のもたらした精の匂いと、嗚咽とでこみ上げる吐き気を堪え、突き飛ばすよう引き剥がされるまで執拗に。
「死びとに足はない」
だから会いにはゆけない。
そうして口をついて出たのは、眼裏の常闇から掬い上げたよう音だった。
かつて吉継は、三成の名の前で死人を装えなかった。ただその名の前でだけは。
その口が今、死びとの道理を語るのを、男はどのような面持ちで見るのだろうと吉継は思い、闇の向こうを見透かすように眼を細めた。
名を聞き涙を落としたそのときを除くならば、生きていると男のいう親友の面影は不思議と浮かんで来ない。
吉継は改めて、死が己に深く、深く根ざしていることを思った。その根ざした死は、黒い紗を幾枚も重ね、愛してやまぬ者の姿すらその向こうへ覆い隠してしまった。刹那閃いた懐かしい影を追えども帳はすでに落ち、広がるのは捜してさまようことすら虚しい永劫の闇だけだ。
唯一の光と思った友の面影すら死の淵へ失ったことを哀しいと思う心すらすぐに、もはや手の届かぬものならばどうでもよいという諦念に塗り替えられる。そしてそうできてしまう己に、重ねて絶望した。
吉継に再度の生を与えた者の名が、今はむしろ、吉継のか細い生を崩し始めた。
たとえば、覚めたとき五体がせめてもあの頃と同様の自由を得ていたならば。高虎が、己を情人として囲うのでなく虜囚と遇していたならば。こうまであの生を遠く思うことはなかったかもしれない。
だが現実は、自らの足で歩むこともできず、友人のもとへ赴くことは赦されず、高虎はそんな吉継を恋人の如く抱く。
その変化は吉継に、かつて、三成と出会う前に向き合っていた死のかたちを――ただ一色に染められた救いがたい孤独を、容れさせるに充分なものだった。
自らでそこへ、向かう。生きて得たものすべてを、削いで落として、何も残さずに。
「ふ、ふふ」
狂人じみた笑い声が漏れ出る。
反面涙を落とせば、この狂態に今度こそ男は、ここにいるのがかつて焦がれた者でないと胸へ刻むだろうと期待した。
花散らす風が吉継の哄笑を浚う。
高虎の手が恐る恐る、頬へ触れ、髪を撫ぜた。
「早く、」
早く、認めろ。
あなたは、過った。私たちは。
再び己を抱き寄せた男が、かろうじて首を振った。
頑是無い子どものような仕種には意外にも愛しみがわき、気づけば高虎の背に腕を回していた。嗚咽にも似て、体が小さく震えている。
なだめるようにその背を摩りながら、吉継は今までのどのときよりもこの男に想いが向いていることに気づいた。
そして、来年の花は見ずにすむかもしれないと、思った。
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(そろそろ高虎を幸せにしてあげたい気になってきました。笑)
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