華を拾う
男は目を開いたまま死んでいるのだった。
月明かりが渡る青白い頬には、死に臨んでの苦悶はない。ただもの問いたげな眼が、高虎の方――縁の外の夜へ向けられているだけだった。
もとより白く濁っていた眼球は、今は涙滴が渇いてつややかさすら失っている。
急報を聞いたのは今朝のことだ。監視役の忍の投げ入れた結び文は、ただの一行で別邸の変事を伝えていた。
その淡白さをそのまま映して高虎はその文を炭櫃の火へくべ、何事もなくその日の執務に取り掛かった。
そこへ住まう人間のことを知っているのはごくひと握りの人間で、しかも忍はその誰にも変事を伝えてはいないだろうから、その薄情を責める者はない。
そうして滞りなく全ての仕事を終わらせてから、夜行、馬で駆けてきたのである。
男の世話をさせていた家人によれば夜の間に息を引き取ったものらしいということであったから、丸一日むくろは芒と、庭の光の移ろいを見ていたことになる。
「……何もそのまま放っておくことはねえだろう」
高虎の呟きは誰に向けられたものでもない。単なる感慨の吐露であった。
ただでさえ死は忌避されるもの、まして男は生前業病を患った身である。誰しも触れたがらぬのは当然のことであり、そのことを理解しすぎるほどに理解していた死人も家人を恨みはすまい。
高虎にしても家人の情意は重々承知している。愚かと知りつつ決して安くはない対価で人を雇い、この邸に住まわせた男の世話をさせていたが、これはその埒外のことと雇われ人が思ったところで特に不思議もない。
だがそれでも言葉が漏れたのは、赤の他人である家人よりは故人に対して思うところがあるからだ。
首を仰向かせてやろうとした高虎だったが身体が硬直していてそれはかなわず、倒れた高枕を起こして首をのせてやるくらいしかできなかった。だがかえって、寝返りでも打ったかのような姿勢になり、瞼を落としてやれば本当にただ眠っているだけのような姿になる。
そうして吉継の体を横たえておいてその隣へ寝そべれば、睦んだ後と同じようなかっこうになった。抱いたとしてその体に温みはもはやないが。
弔ってやらねば、という気持ちはどこか遠くにあって、けれどそれが近づいてくるより先にふいにこみ上げてきた涙の気配に高虎は己で驚いた。
涙など流すはずがないと思うほど、覚めていると思っていたわけではない。
寧ろ逆に、これまでずっと、己で違和を感じるほど、この男に囚われていると思ってきた。。
その魂が決して手に入らないことを知っていながら、手に入れたいと望むこともあきらめながら、それでも先細りするばかりの命を手放すことが出来なかった。
拒まれるときも、受け容れられるときも、結局はどこか苦い思いばかりをしながら、今日という日を迎えるまで。
喩えるならば細く紡がれた糸の縛りだ。目視できないほど儚いくせに、絡んでは食い込み、身を切る。
そうであるから、馬を駆る間、高虎は巻き上がる土煙に安堵の吐息を紛れさせていた。宵闇に情人の死相を描き、これでようやく己に似合わぬ執着から解放されると思っていた。
死者との対面が、己の執着に締めの印を落とすためのもの。そう思いながら駆けてきた。
そのはずが、温もりを失った屍を目の前にしてあるものは、まるでまっとうに愛しあった恋人に死なれでもしたような悲しみなのだった。
結局、堪えきれずに涙が落ちる。拭えども拭えども湧いてくるものが、畳に染みてゆく。
(……赦されよ、)
ふと、耳奥に響く声があった。
死人が口を開くはずもないが、それは紛れもなく吉継の声。
記憶より呼び起こされる、彼の人の囁きだった。
「私は、あなたに傷だけを遺してしまう、」
吐精の恍惚の中で、その意味すら不明瞭になるほどにゆっくりと、吉継は言葉を紡ぐ。
薄布に包まれた指先が鼓動をつかまえるように胸の上を辿る、その女のような仕種に苛立ち、高虎はその手を捉えた。
すると、幽かだった涙の気配が明瞭に形を得て落ちてゆく。
「どうして、」
問う、その言葉を聞かない日はなかった。
「あなたがわかっていなかったはずがない」
この末路を。
そう言って、女々しくも吉継は泣くのだ。
それが本心を含んだ芝居であることを高虎は知っていた。高虎の口から聞きたい言葉があるゆえの、仕種だった。
けれど問いの答えを高虎は持ち合わせない。むしろ、その答えを探して探して、得られずにあがいているのは高虎の方だ。
「お前を死なせたくなかった、」
それだけだ、と。
惑いに覆いをかけるためだけの甘さが、重ねるほどに真実に近づけばいいと願ってさえいる。
それが嘆く男へ、そして自分へも、空しいだけの響きを残すとしても。
吹き込んだ風が首筋を撫ぜて、夢とも追想ともつかぬ情景から立ち戻った。
起き上がろうとしてついた掌が柔らかな感触を敷く。戸口から咲き初めの花が首ごと散って吹き込んできたものらしく、暗がりに目を凝らせば、部屋の隅や、骸の横たわる褥にも月明かりに青白く色を失った花が幾許か散らばり、蟠っている。
「は」
馬鹿馬鹿しいほどに感傷的な光景であった。散る花に送られて黄泉路へ向かうなど、この男には似合い過ぎていっそ白々しい。
悪戯心から、拾った花を血の気の引いた唇へのせる。だがそれはあっという間にほろりと崩れ、ただ一枚だけの花弁をそこへ残して落ちた。
たまらずに、高虎はその上から己の唇を乗せる。花弁の含む冷えた水気の向うに、やはり冷えた……そして、乾いて固い、唇の感触がある。
やはりとめどない涙が花弁を温め男の唇を潤しても、一時のこと。嗚咽は抑えつけられて喉を焼いた。
そうして己も知らぬ体で泣き喚きながら、それゆえか、どこかでその涙の源を探そうとしている己がいる。
それはおそらく、あの日戦場で彼を死の淵から引きずり上げた激情の理由と同じものであり、死んだ男が、幾度も投げかけた問いの、答え。
けれど、決して言葉で形を与えることの出来ないものだった。
「――悪かったよ、」
男が求めていたものは謝罪ではあるまい。あのとき、赦せと泣く男の言葉が高虎に空しく響くばかりだったように。
だがせめて男が生きている間に言葉にできていれば、目を逸らし続けてきたものに向き合えていれば、今動かぬ男の腕は、高虎の背に回されたかもしれない。宥めるように。
気づいていてもどうすることもできなかった過ちは拭われず残されたまま、進まねばならないのだった。
朝が来れば、彼を葬らねばならなかった。
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(また謝ってる高虎。)
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