だきしめたい。 (なんかすごい甘い瀬戸内) |
■2008.04.15(Tue) だからこの男はわからんのだ、と思った。衣の肩がすっかり濡れてしまっている。 近頃は随分と暖かくなってきたので、駆け寄って取った手はまだそれほど冷えてはいなかった。ただいきなり後ろから触られて、振り返った男の目は常の比でないほどに冷え切っていたけれども。 「……何をしに、来た」 雨滴に湿った唇が開かれて出てくる言葉も地の底から這い出してきたようで、つまりひどく不機嫌なのだと、察して元親は手を引いた。あまり触っていると斬り殺されかねない。代わりにその頭から、庭に出る前に拾ってきた羽織をかけてやる。今は迷惑そうに肩までそれをずり下げる男は、屋根の下から見たときは比較的機嫌のよい様子でいたように思うのに、あれは幻だったのか。 「何ってあんたに会いに。文も遣したし、表から通されてきたし、文句言われる筋合いはねえぞ。どっちかと言うと俺が、客が来るのをわかってるはずのあんたが雨ん中ずぶ濡れで庭に立って何をしてたのかを訊きた、」 言い終える前に、引き寄せられて過たず唇が合わさった。 予想だにしない元就の行動に虚をつかれた元親が目を白黒させているのに構わず、やわい舌の感触が、上唇と下唇の合間をなぞる。あけろといって、探ってくる。 「ふ、」 ぴったりと吸いついていた唇が、すこし浮いたところへ漏れ出た息はどちらのものか。一度口内へ導き入れてしまえば、定かではなくなる。元親が応えずとも好きに動く元就の舌は、細やかに凹凸する表面を舐めとり、縁をたどるだけでは飽き足らず、舌の裏の粘膜で唾液をまぜ、歯列をくすぐる。 その一つ一つが元親の官能を刺激するためのものであるのはまぎれもないのだが、どうにも露骨過ぎ、却って頭が他人事のように冴えていく。それでもしばらくの間はされるがままでいた元親だったが、腿の間に膝が割り入ってきたときさすがに焦って体を引き剥がした。 「いきなり何をしやがんだ、あんたは、」 息を整えながら抗議すれば、朱を強くした唇を弧にゆがめた元就が再びするりと腕を伸ばしてくる。頬に添えられそうになった手を直前で掴み、無理やりに引きおろす。 「やめろって。あんた俺のことなめてかかりすぎだ。こんなんで誤魔化されねぇぞ、いくらなんでも」 むしろ、そうまでして誤魔化したいことが何なのかを余計に知りたくなってしまった。強引すぎる口づけを仕掛けてきた元就の意図が先ほどの元親の疑問の向く先を誤魔化すためなのだとしたら、完全に失策である。 それがわかったのか、元就も顔を顰めた。「下らぬところで察しのいい」などと毒づいて見せるものだから、では先ほどのうっそりとした笑みは演技かと空恐ろしくなる。 「で、何なんだよ」 「戻るぞ」 「おい!」 ぴしゃりと言いつけて踵を返す、初めからそうしていれば深入りする糸口も見えなかったはずなのに。無意識なのかどうなのか、誘い込むように口を開かれたら飛び込みたくもなるではないか。 さっさと室に戻る元就の背を追って漸く元親が濡れ縁へ上がりこむと顔面に手ぬぐいが飛んできた。 「貴様は一応客分なのだろうが。風邪でもひかれては我の体面に関わる」 拭いておけと言われてその通りにしている元親だったが、そのまま逃がすつもりもなかった。濡髪の間からじっと相手を窺い見ていると、しばらくの間は自分も髪やら肩やらの雨滴を拭っていた元就が、観念したように口を開いた。 「……花がもう、終わるな」 「ああ、まあこの雨じゃな」 花の盛りはとうに過ぎてしまっている。まだちらほらと残っていた往き遅れの花びらも、この雨で最期を迎えるだろう。 その無常の風情に、心囚われたとでも言うのだろうか。 「けどこの庭、桜はねえだろ」 「そうではない。そうではなくて、この、花散らしの雨が」 途切れ途切れ漏らされる音は、時折雨音よりも儚い。不審に思うほどの力弱さに思わず元親が近寄れば、今度は拒絶の意味で腕が伸ばされ押し留められる。 「随分と穏やかだと、」 言われてあらためて見る花の終わりの雨は元就の言う通り、たおやかに優しい。軒先を叩く雨音もやわらかな、音曲のようで。歌人ならずとも歌に写し取りたくなる風情である。 が、意外なほどに詩情溢れる感性よりも、その後元就が搾り出した言葉に元親は目を丸くした。 「この雨に抱かれて散るようには、死ねぬだろう、と」 それきり、元就は片手で顔を覆って俯いてしまった。 随分弱気だな、とからかうべきか。 鬼謀の将が、今更何を言ってんだとでも笑い飛ばすべきなのか。 片手で覆い切れない頬の白皙に目に見えて朱が差しているのがわかると、言葉は春霞よりもまだ淡く霞んで形を成さず、ぼやぼやと部屋の中を漂う。そもそもなぜそんなことを、身を縮めるほど恥じる必要があるのかが元親にはわからなかったので。秤にかけたならばどう考えても、先ほどの口づけのときに見せた媚態の方が、恥じるべきだろうと思うのに。 ただ、滅多に見ることのない元就という男の弱味をまざまざと見せつけられて、言葉にしがたい感情が腹の辺りに生まれたのは確かだった。 「……貴様にはわからぬ。ゆえに貴様は哂うまい、だが、それでも」 そのような柔弱な様を一時でもうわべに出した自分を、赦せないのだと。 雨の滲みた空気は、常よりも密に向かう相手の思いを伝えるものなのだろうか。困惑と愛しみ、というのが近いように思う元親のそれを感じとったように、元就が言葉を継いだ。 「よりによって貴様に見られるな、ど」 再び元就が言葉を失くす前に、無理やりに引き寄せてしまう。 もっと抵抗されるかと思って身構えていた元親だったが、意外なほど大人しく一回り小さな体が腕の中に転がり込んできた。ただ、引きずられたから倒れこんだというだけの様子で、人がたをした石の塊を抱き込んでいるようにその体は固い。 それは面罵されるよりも性質の悪い拒絶だけれども、気を悪くする以上に元親が、これを抱きしめていたいという欲のほうが強かった。大体、こういうことをするのに逐一相手の納得と承認を得ようとしたら、人の一生全て費やしても触れることさえかなわない相手なので。 しばらくしてから我に返ったようにぐずぐずと中途半端な抵抗を試みようとする元就を、体格の差をいいことにさらに抱き篭める。 「離せ」 「やだね。あんた自分で言ったろ。俺に見られたのが運の尽き、だ」 「何もわかっておらぬくせに、よく言えたものだ」 「あんたの考えてることなんかわかるかよ。でも何か恥ずかしがってるのはわかる。で、そういうあんたは、可愛いからな」 「……死ね」 最後に吐き捨てられた言葉は、死ぬ、だったかもしれなくて、思わず笑ってしまった。 |
瀬戸内現代パロと見せかけてファンタジー:1 |
■2008.04.02(Wed) ……呑み過ぎた。良いところに現れた交通標識の支柱にもたれかかって、元親は今日何度目か、頭の中で呟いた。 バイト仲間と飲み会だったのである。日付はついさっき変わったくらい。乗ってきた終電は多分もう車庫に入ったろうか。 アスファルトが古い畳のようにふやふやとした感触で、スニーカーの裏に当たる。 多分真っ直ぐ歩いているはずだが、何度か歩道の縁から落ちたのでそうでもないかもしれない。正体を失って駅で一夜を過ごすようなことにはならなかったのがせめてもの救い。自宅まではもうすぐ、あと50メートルほどだ。 しばらく支柱を恋人のように寄り添ってその場から動けなかった元親だったが、ここで倒れたら努力が水の泡と、よし、という気合とともに体を起こす。丸く狭くなった視線の先で、車が寂しく一台走り去っていった。 「今が一番いい季節ですねえ」 朝出かけるときは、犬の散歩中の老夫婦のそんな会話を聞いた。薫風の頃、というやつだ。そよぐ夜風は、酔いに火照った頬にもやさしい。背を押すやわらかなその風に励まされて、おぼつかない歩を刻む。 ――か? 数メートルを大げさな時間をかけて進む元親の耳に、ふいに誰かの声が入ってきた。 問いかけに持ち上がった語尾に、答えはない。ここいらは住宅街だし、休日前の夜中なら人がいてもおかしくはない。駅にだって、元親のご同類はたくさんいた。まして相手がいるなら長話もありだ。 が、何かひっかかりを感じて元親は闇に目を凝らす。この先にあるのは、数台が停められる程度の月極駐車場。そしてその向かい側のぼろアパートの一室が、元親の住まい。 数歩進む。街灯の青白い光が円筒状に闇を裂く、その下に人影があった。 ――もはや、ならぬのか? 繰り返し問われる声は、男のもの。 芝居がかった、古風な言い回しである。いや古風なのは言い回しだけではない、服装もだ。ただの和装ならば変わった奴で済むところ、男の恰好は神社の神主が着るようなもので。近くにそれらしき社のない街中では変わったどころか異様である。 ……それ以前に、男が先ほどから一途に問いかけている相手が、人でないことがすでに異様なのであるけれども。 満車になった駐車場の隅にあるのは桜の木だ。いつからあるのかは知れないが、太い幹とそれは見事な枝ぶりで春ともなれば華やかに花を咲かせ、通る人々の目を楽しませる。そんなところに木があっては駐車場としてはいささか窮屈なところ、伐られることなく今もあるのはその美しさのなせるところなのだろう。 その桜の木に、男は話しかけている。 萌黄色の袖から覗き、桜の黒い幹に縋るようにかけられた手は白く細い。そもそも出で立ちが華奢なので、声がなければ女と見間違えたかもしれなかった。 酔いに任せて無遠慮に男の姿かたちを眺めていた元親だったが、我に返ってそっと自分の左目を覆ってみた。普段は眼帯で隠している目である。酔いの回った頭に眼帯は少し窮屈で、ついさっき外したのだった。 右目だけで、街灯の下を見る。 誰もいなかった。 (やっぱりか、) 左目を覆った手を外してもう一度桜に目をやると、やはりそこには男が佇んでいる。 この手の不可思議なモノに出会うのは、元親にとってそれほど珍しいことではない。左目だけがそれを見る。 桜の下の男のような奴ならともかくも、血塗れの落ち武者やら顔が半分に割れた白い服の女に、そうそう会いたくはない。それに大体、その手合いのものは、目を合わせるとついてくる。だから見えない振りをするのが一番なのだ。それで普段は、不便をわかっていて片目を覆っているのである。 ただ、左眼で見えるものの全部が全部、悪いものでないことも元親は心得ている。つい一月ほど前か。まだ桜が満開だったころに出会った男はやはり、右目では見えない類のそれだったけれども実に気持ちのよい男で、こんな道端でつい酒盛りにまでなだれ込んでしまったほどである。 そんなだからつい、見たところはちゃんと人の姿をした男がどんな男なのかと好奇心が働いてまじまじと見てしまったのだけれども。 はたと、元親はいつの間にか、見ているのが自分だけでないことに気づいた。先ほどまでひたむきに桜の木に語りかけていた男が、こちらを見ている。酔いのせいかどうにも感覚が鈍って、頭が追いつくのが遅い。 「貴様、我が見えているのか?」 初対面の相手に対して、随分と高慢な物言いだ。だがその権高な言いようが、ぴんと背筋を伸ばし踵の音も高らかに歩み寄ってくる姿といかにも似合いである。浮世離れしていて腹を立てる気にもならなかった。 目の前に立つと元親より頭一つ分以上は小柄だが、見上げてくる切れ長の眼には、応じずにはいられないだけの威圧感があった。 「ああ、見えてんぜ」 相手が何かもわからないというのに酔いで気の大きくなったまま不遜に返せば、男は一瞬の間眉を寄せたがすぐに無表情に戻って「そうか」と呟き、踵を返して再び桜の木の本に戻る。 その仕種が余りにも素っ気ないので、元親は拍子抜けしてしまった。もっと驚くなり、人間ごときの非礼に憤るなりすればいいものを。 あっさりと引いていかれると逆に踏み込みたくなるのは、元親の悪い癖だった。気づいた時には桜の下へ駆け寄っている。 「何だ?」 何をしているのかを訊きたいのが、怪訝そうに元親を振り返る男の顔を間近に見て我に返った。 「……何をしてんのか訊きたいんだけど、さ」 「訊いてどうする、と言いたいところだが」 どうやら素直に応えてくれるつもりだったらしい男を制して、元親は肩を竦める。男は再び「何だ」と首を傾げた。 「ここで話すと他の奴に見られたとき俺が変人扱いだからよ。話してくれるってんなら、うち来てくれねえ?」 首で、すぐ後ろのぼろアパートを示す。つられてそちらを見た男が、合点がいったと頷く。 すでに、ぴったりと寄り添った男女が二人して、気味の悪いものを見る顔で通り過ぎていったのだった。 たとえば女相手ならばもう少し上手な誘い方をするだろうと思う。それでも他に仕方を知らずに、名もわからない男を促したが、特に渋る風でもなく彼は部屋に上がりこんだ。部屋の明かりの下で見れば、萌葱の狩衣姿も凛々しい、美しい男である。 狭い玄関で律儀に沓を揃えて脱ぎ薄い座布団にきっちりと座って元親の言葉を待つ様が先ほどの顎の上がった態度と裏腹で、妙におかしい。 つい笑ってしまった元親は、力の入った腹に反旗を翻されて玄関を上がれぬまま体を折った。天地がひっくり返るような眩暈と吐き気。酔っているのを忘れていたと、その場にへたり込む。 「貴様へべれけではないか」 尻餅をついたままで、回る世界と対峙している元親の頭上から呆れ声が振る。先ほどは靴音を立てて歩いていた男は、今度は音もなく元親の側によっていた。その気配は幽かで、彼がやはり人でないことを教える。 吐き気を堪えるのにうつ伏せていた頭をあげれば、思いのほか近くから覗き込まれていた。人形みたいな顔だな、と、男の顔の端正な造形を眺めていられた時間はそれほど長くなかった。胃がひっくり返るような吐き気が再び襲ってきて、総毛立つ。 せめて流し台へ、と思ったが間に合いそうにない。玄関のタイルの上なら後始末もそんなに面倒ではないと、とりあえず靴をできるだけ遠くへ蹴やる。 だがいよいよ無理というところ、抑えきれずに再び蹲った元親の口は背後から伸びてきた手によって塞がれた。 「吐くでない。汚らわしい」 男の声である。 無茶を言うなと、引き剥がそうとしてもがいてみるが阻む力は思いのほか強い。切羽詰った元親の思考は、他人の手に嘔吐してしまうという危惧よりも、勝手に割り入ってきた方が悪いのだという方へあっという間に傾いた。 「吐くなというに」 再び耳元で囁かれる言葉に無言で無理と返す。吐いてしまった方が楽なのにやはり人間でないものにはそういうことはわからないのかと心中悪態をついた元親は、男の次の行動に仰天した。 後ろから元親を抱き込むような形でいる男の、口をふさぐ方と逆の手が、シャツの裾から中へ潜り込んできた。そこだけ現実的に冷ややかな肌の感触を持った手が、わき腹から回って鳩尾に添えられる。 「な、」 何だと言おうとした口が、最後まで言う前に今度は開いた形でとまる。手の見かけの華奢さと裏腹に恐ろしいほどの握力で顎の骨を固定されていた。そのまま横を向かされると、目の前に男の硝子玉のような目がある。反射的に目を瞑ると開けっ放しの口中へ、流れ込んでくるものがあった。 風だ、と元親は思う。 「吸え」 驚愕で止まっていた息を命じられるままに吸い込めば、胸を焼き胃を捩じらせていたアルコールの気配が一息に吹き攫われていく。男の手が添えられた辺りに流されて、体の外へ。 「……」 恐る恐る元親が目を開くと、男が顔を引いたところである。シャツを捲り上げていた手が離れ、顎を捉えていた手も離れていったので、元親は思わず自分の口へ手をやった。 「酒気は飛んだだろう」 捲くれた袖口を正していた男が何の感動もなく確認するとおり、吐き気は飛んでしまっている。頭にかかった靄も、消えていた。 「……すげえな」 人ならざる力へ元親が素直に感動すると男は当然のことのように鼻を鳴らす。少し経ってからそれにしたって一言断るとか、もう少しやり方があるんじゃないかとか文句も思い浮かんだが、言うと怒らせそうなので飲み込んでおいた。 「あんた、何なんだ?」 件の桜の木が見える窓際へ戻った男によろよろとついていき、散らかりっぱなしの自分の部屋の真中に座る。振り返った男はしばしの沈黙のあとで口を開いた。 「我が名は元就。春気にまどろむ木々へ新たな息吹をもたらす、皐月の精霊よ」 いつの間にか開いていた窓から、風が吹き込む。それはちょうど、ついさきほど元親の体の中を攫っていったのと同じ、木々の息吹と澄んだ雨の気配を含んだ初夏の薫風で、男の言葉の真実を後押ししする追い風だった。 |
LOG | 2008. | 04. 05. |