*S-calation / side-K*




 あやふやなままの、あなたへの想いの輪郭をなぞる。
 カタチのないまま、名前も知らずに膨らみ続け、
 それはきっと・・・・・、いつか、俺を呑み込んでいく。


***


 未だに、自分の気持ちが分からない。
 あの人の事を受け入れたいと思ったのは嘘じゃないし、決して流されての決断ではなかった。
 そうでなければ、あんな誘うような真似ができるはずない。
――――朝っぱらから何を考えてるんだ俺は・・・・。
 誰に聞かれた訳でもないのに、己の内心の独白に顔が熱くなる。
 そして深い溜息を漏らしつつ、気持ちを切り替える。テニスコートに、こんな不健全なモノを持ち込むのは自分の信条に反する。
 既に何人かの部員が着替えてコートに出ていた。ほとんどは一年生の様だが、その中で浮いた人影に気付いた。体育着の中でぽつんと一人、レギュラージャージ。
――――この人は苦手なんだよな。
 挨拶をしなければと思いながら、声をかけるのに少しばかり覚悟が要る。
「・・・・おはようございます」
「あ、海堂。早いね、いつもこの時間なんだ?」
 振り返った不二先輩の笑顔に、ほんの少し気後れしながら応える。
「っス。先輩こそ、随分早いっすね」
「そうなんだよ。ちょっと昨日眠れなくてさ、結局朝も早く目が覚めて、家でゆっくりする気分にもなれなかったから、それならいっそラケット振ってた方がスッキリするかなーと思って」
 そう言って笑う先輩は、確かにいつもの精彩を欠いているようにも見えた。
 この人にも人並みな悩みというものがあるのか、と口に出しては絶対に言えない感想を抱いて、我ながら酷い言い種だ、と反省する。
 だから普段の自分なら絶対にしないだろうが、俺は自分から不二先輩に話しかけた。
「あの・・・・・良ければ、ラリー付き合ってもらえませんか?」
 誘われた方は意外だったのだろう、少し驚いた表情でこちらを見つめ返した。何かを言いかけたが、すぐにそれを飲み込み、ふわりと微笑んだ。
「こちらこそ、お願いするよ。・・・・・でも、乾にヤキモチ焼かれても知らないからね?」
「なッ・・・!何言ってんスか!」
 慌てて叫んだが、当の本人はどこ吹く風で、今更ながら俺は自分の行動を後悔した。


***


 あの人がいつも俺を見る時に眼鏡の向こうに隠している心情を、俺は何となく気付いていたのだろう。
 分析対象でもなく、後輩でもなく、ダブルスのパートナーとしてでもなく。
 理屈だけで構築されているような性格とは裏腹の、ひどく危うげな揺らぎ。
 優しくオブラートに包んだ「好きだ」という言葉が、あの人のそんな想いを滲ませていた。
 それを聞く度に、俺は苦しくなった。
 普段は誰よりも正確に自分を把握してくれているはずの視線が、肩の辺りをすり抜けていく感覚だった。
――――それが、たまらなく悲しくて。
 本当の自分を見て欲しいと思った。
 くれる眼差しも、言葉も。触れる熱も、想いも、全て。
 それは確かに自分のものの筈なのに、その全てが手に入らない。
 だから、欲しいと思った。
――――それって恋愛感情なのか?
 あの人の事が特別なのは、認めない訳にはいかない。だが、それが恋や愛という類だとは、どうしても確信を持って言えない。
 好きだし、好かれたい。
 あの人の全てを肯定するわけじゃないが、それでも尊敬している。
 けれど、あの人が俺に求めるのと同じモノを、本当に欲しいと思ったことはない。
――――側にいられるだけで・・・・・いいんだけどな。
 触れ合うのはやっぱり気持ち良いけど、いつもどこかに後ろめたさが付き纏う。
 ただ側にいるだけで、満たされる。
 それだけじゃ、駄目なのだろうか。これは本当は、恋とは違うものなのか。
――――あの人は、危うい。
 誰よりも大人びて整っているように見えて、どこかひどく歪んでいる。
 それが何となく分かるから、放っておけない。つい、望まれるものは与えてやりたいと思ってしまう。
 もしそれであの人の中で、何かの均衡が保たれるのならば。
 救うとか、支えてやるなんて器用な事はどうせ俺にはできないから。
――――だから、全部を受け止めたいだけ。
 そんな風に想うのは、恋とは違うのだろうか。


***


「・・・・・っ!」
 不意に集中力が途切れた。
 しまった、と思ったが既に遅く、狂った手元から放たれたボールは、力なくネットに撥ね返った。
「・・・・・・すんません」
「気にしなくて良いよ。少し休憩しようか?」
 さり気ない不二先輩の厚意に、俺は素直に甘んじる事にした。どうも、すぐに集中力は戻りそうにない。
 黙って頷くと、先輩は俺にコート脇のベンチに座るように促し、自分もその横に腰を下ろした。
「余計なお世話かもしれないけど、何か悩み?」
 こちらを見ずに、軽い調子で尋ねてきた。
「言いたくないなら別に構わないけど、あんまり集中できてないみたいだったから。ま、俺も他人の事は言えないけどね」
 そう言って笑う先輩からは、いつもの得体の知れない感じはなかった。いい加減自分の中の堂々巡りにもうんざりしていた俺は、不意に他人の意見を聞いてみたくなった。
「放っておけないっていうのも・・・・・、『好き』、なんスか?」
「え?」
「そういう『好き』も、あるんスか」
 普段なら絶対に、死んでも他人にこんな事を訊いたりはしない。なのに、この時自然とこんな台詞が口をついて出たのは、珍しく不二先輩が弱っていて、俺自身も少々弱っていたからなのだろう。
 案の定、先輩は驚いて言葉に詰まっていた。動揺するこの人を見るなんて、もしかすると初めてかもしれない。
 けれど先輩はすぐに表情を取り戻し、優しげな微笑を口許に浮かべた。
「アリなんじゃないの?『好き』のカタチなんて、色々あって当然だし」
 そんなにさらりと言われては、逆に何だか釈然としない。
 眉間に皺を寄せた俺の表情を横目で見つつ、先輩は目を細めた。
「その人の全部を欲しいと思ったり、逆に自分の全部をあげたいと思ったり、全部壊したいと思ったり、壊されたいと思ったり・・・・・。ただ、側にいたいと思ったり、いて欲しいと思ったり」
「けどそれじゃ、相手と全然噛みあわない事もあるんじゃないんスか」
「あるだろうね。もし互いの『好き』を受け止め合えなかったら、とても悲しい事だけど、仕方ないよね」
「仕方ない・・・・」
 そんな割り切り方、できるものなのか?
 『仕方ない』って言って、切り捨てられるものなのか?
 俺は自問しながら、あの人の面影を呼び起こした。
 初めてあの人を欲しいと思えた、誰よりも側にいたいと思った、あの夜。
 一瞬垣間見た、眼鏡越しでないその瞳が、少し困ったように、恥ずかしそうに潤んで。
そして、そっと囁いた。

『どうしよう。本当に、すごく、海堂のことが好きみたいだ』

 割り切れる?切り捨てられる?
――――少なくとも、・・・・・・俺には出来ねェ。
 あの言葉を信じている。
 だから、互いを受け止めあえないなんて、俺は信じない。
 分かり合えなくてもいい。それでも、歩み寄る事は出来るはずだから。
 だから。
「そっか・・・・。そうか、アリ、でいいのか」
 思わず呟いて、俺は一人で納得した。
 ずっと重く圧し掛かっていたものが、すとんと落ちたような気分だった。体さえ軽く感じる。
「・・・・憑き物が落ちたみたいなカオしてる」
 羨ましいな、と笑う不二先輩に、俺はベンチから立ち上がって、深く頭を下げた。
「―――ありがとございましたッ」
「ここは海堂に倣って素直に、『どういたしまして』って言った方がいいのかな」
 楽しげに笑う先輩の表情は、驚くほど優しかった。
 本当はこの人、俺が思っていたよりもずっと、善い先輩なのかもしれない。
 そう、俺に今までの見解を覆させるほど、今朝の不二先輩は邪気がなかった。
 その時、出し抜けに背後から聞き慣れた声が響いた。
「何、もしかして海堂、不二に見惚れてるわけ?」
「・・・・!乾、先輩」
「ダメじゃないか不二。断りもなく海堂を誘惑するなよ」
 さりげなく俺の肩を掴むと、ぐいっと自分の方に引き寄せた。
 不二先輩は、同じ顔なのに先刻とは別人のように微笑んだ。
「嫌だなぁ、そういうの、邪推って言うんだよ。知ってた?」
「お前に限っては邪推も邪推にならないよ」
「こういう場合、何て言うのかなぁ。月並みだけど、『君にだけは言われたくない』?」
「本当に、ボキャブラリーの貧困さに心から同情するよ、不二」
 唐突に始まった毒舌の応酬に、俺は軽い眩暈を覚えた。
 俺は乾先輩の手を軽く払い飛ばすと、不機嫌そのものという表情を作って睨み付けた。
「不二先輩に絡むくらいなら、とっととアップでもしたらどうなんスか」
「しようと思ったんだけど、二人で何だか話し込んでるから、気になって」
「くだらねェ言い訳してんじゃねーよ」
「俺にとってはくだらなくないんだけどなぁ」
 とぼけた調子でそうぼやいて見せて、にやりと笑う。このやり取りを楽しんでいる証拠だ。
「くだらねーよ。あんたが気にしなきゃならないような事は、何もないんだから」
「何もなくっても、やっぱり気になるよ」
「・・・・・・また言ってる事の意味、分かってねェな、あんた」
 溜息をつきながら、すれ違いざまに、この大馬鹿野郎にだけ聞こえるように低く呟いた。
「もっとちゃんと、俺のことを見てろよな。そんなくだらねーヤキモチ焼く必要はねェっつってんだよ」
 言いながら顔が熱くなるのが分かったが、それを悟らせまいと、俺は振り返らずにコートに入っていった。
 そして、口に出せなかった台詞の続きを心の中だけで呟く。
――――俺はもう、他のヤツの事なんか考える余裕はねェんだよ。




end







本編/side-S


はあ、薫ちゃんは強い子ね…と思わず嘆息してしまいます。
不二の多面性も複雑で素敵です。
本編ばかりか後日談まで頂いてしまって…お礼の言い様もありません。
いつか何らかの形で恩返しをしたいと思っております…
が、こんなに素晴らしいものが私に書けるかしら…。
何はともあれ、どうもありがとうございました。


■BACK■