*S-calation / side-S*
薄い糸を張り巡らせて、罠に誘い込んだのは俺の方。
なのに今更後悔しているのは何故だろう。
冷たい恐怖に身が竦んだのに気付いて、自嘲気味に口の端を僅かに上げる。
俺は、永遠に失うのか。
もう、想う事すら許されないほどに、君は遠くに行ってしまうのか。
これが恐怖でなくて何だ。
それでも止まらない衝動に突き動かされている自分が、まるで自分ではないようで恐ろしい。
――――――――そして、どこか愛しい。
狂気を抱えて、俺は君へと続く扉を開いた。
***
「海堂、この後時間ある?」
部活を終えて着替えていた海堂に、俺は声をかけた。
にっこりと微笑む俺の顔を見て、胡散臭そうに、露骨に顔をしかめた。
「・・・・・何すか」
「ちょっと試食してもらいたいものがあるんだ」
「嫌だ」
きっぱりと即答されたが、その位は無論予想の範疇だから、少しも慌てずに言葉を継ぐ。
「最近料理に凝ってて、色々作ってはみるんだけど食べてくれる人がいなくてさ。両親とも揃って食卓を囲むってこともないからね、うちは」
だからと言って、両親の愛情が薄い訳ではない。俺は少しもそれを気にした事はないし、寂しいとも思わない。
「栄養バランスとか彩りとか、色々考えながら作って自分で食べるのも、別に悪くはないんだけどさ。ホラ、俺ってプロセスだけで満足できちゃう所があるから。でも、やっぱり同じなら、張り合いが欲しいかなって」
さらりと言うと、俺は再びにっこりと笑う。
俺の家よりもずっと分かり易い愛情を一身に浴びてきた海堂は、とても素直で優しい子だから。俺が少しも気にしていなくても、たった一人の食卓を思い浮かべ、ほんの少し表情を曇らせる。
――――本当に優しいんだな、海堂は。
海堂の僅かな表情の変化を目聡く見つけ、俺は胸中で呟いた。
そんな彼が愛しくて、同時に哀れだとも思う。
「腕によりをかけて作るから、良ければ夕食、食べていかないか?」
いくら素直な海堂でも、さすがに俺の言葉を丸々信じる事は出来ないようだった。大抵こんな場合は、裏に何かしら思惑があるのが常である。そして、その海堂の予測は外れてはいない。
けれど、例え何かがあるのだと察しても、海堂は本当に人を疑う事が出来ない。だから最後にはいつも、俺の事を信用してしまう。恐る恐る、俺の差し出した手を取ってしまうのだ。
「まぁ、どうしてもダメだって言うなら無理強いはしないけど?この時間じゃ、海堂のお母さんも夕飯の準備済ませちゃっただろうしね」
「・・・・・・今日じゃなきゃダメなんすか?」
「ダメって訳じゃないけど・・・・・、今夜がいいんだ」
理屈抜きの、否を言わせない子供の我儘と同じだった。
そう言った俺に、海堂は何故と問うてはこなかった。しばし思案顔で横を向いていたが、うんざりしたように長い溜息をついて、俺を睨み付けてきた。
「あんたは何でいっつもそう強引なんだ。せめて前日に言え!」
苦々しげに毒づく海堂に、俺は少しもそれを意に介さずに頷く。
「そうだね、ごめん」
「〜〜〜〜っ!!ヘラヘラ笑ってんじゃねぇ!」
「うん、ごめん」
海堂は怒鳴るけれど、俺は変わらずだらしない笑顔で海堂を見つめる。その答は海堂にも良く分かっているから、彼は顔を赤くして唸っただけだった。
「ありがとう、海堂」
俺のその一言に、海堂は耳まで真っ赤にして声を失ったのだった。
***
海堂は、俺が丹精込めて作った手料理を、何も言わずゆっくり味わってくれた。
調子に乗った俺は、とても二人では食べきれない量を作ってしまって、食卓の上の皿の数を見た時の海堂の顔は、呆れてものも言えない、といった様子だった。
「・・・・ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
にこにこと上機嫌で応えた俺に、海堂は少し照れたように顔を背けた。
律儀にも残さず食べてくれた事が嬉しくて、ついつい感想を聞いてみたくなった。
「どう?意外にイケてただろ」
「本当に意外でしたよ。普通にマトモなのも作れるんだなって」
憎まれ口を叩く海堂に、俺は声を立てて笑う。海堂はそんな俺を見て、ぼそりと呟いた。
「・・・・・・でも、旨かったっすよ、ホント」
聞こえるか聞こえないかギリギリのトーン。それでも、俺が聞き逃すはずがないと海堂は分かっている。
それが可愛くて、俺はいつもよりもずっと優しく囁いた。
「ありがとう」
「―――――別に」
ぶっきらぼうな物言いが可笑しくて、俺はまた声を立てて笑い、海堂にじろりと睨まれた。
***
折角家まで来たんだし、良ければ勉強でも教えてあげようか、と俺は海堂を誘った。
食べ終えたばかりで、さすがにすぐ帰る気にはなれなかったのか、海堂は珍しく素直に乗ってきた。
テストも近い事だし、俺は曲がりなりにも上級生だし、決して成績も悪い方じゃない。丁度良い機会だとでも思ったのかもしれない。
海堂がそこまで打算的に考えたとは思えないが、とにかく二つ返事で頷いたのだ。
俺は二階の自室に海堂を招き入れると、適当に座るように促した。
「どうした?突っ立ってないで、その辺に座って」
所在無げにおろおろしている海堂に、敢えて素っ気無く声をかけた。
海堂はおずおずと床に腰を下ろし、ベッドに背中を預ける。それでもまだ、落ち着かない様子だった。
「居心地悪い感じ?最近片付けたばかりだから、そんなに汚くはないんだけどな」
「いや・・・・、そういう訳じゃ」
動揺する海堂を見て、俺はレンズ越しに、すっと目を細めた。
「ちょっと待ってて。何か飲み物取ってくるから」
そう言い残すと、俺はさっさと部屋を出てしまった。
宣言通りグラスに二人分の麦茶を注ぎながら、自分の部屋で一人座っている海堂の姿を思い浮かべた。
全部、順調に事は運んでしまっている。
――――望んだことのはずなのに、全く矛盾してるよ。
腹立たしげに胸中で呟く。
けれど同時に湧き上がる嗜虐的な感情に、俺は自分の業の深さを感じた。
もう、今更後戻りする気などない。なのに気付けば、必死に逃げ道を探している。
――――矛盾だらけだ・・・・・・。
でも、止まれない。それだけは、悲しいくらいにはっきりしていた。
***
がちゃり、と扉を開く。その音に、海堂は僅かに体を硬直させた。
それを誤魔化しきれるほど、彼は器用ではない。けれど、俺は気付かなかった振りをした。
持ってきた飲み物を手渡すと、俺は海堂の前に腰を下ろした。
「それは普通の市販の麦茶だよ」
そうやって軽口を叩いたが、海堂のぎこちない空気は柔らかくならなかった。
きっと本能的に分かっているのだろう。自分が、タチの悪い罠にかかってしまったのだと言う事に。
――――可哀想な海堂。
そう思いながら、俺はグラスを持つ海堂の手に、つ、と指を滑らせた。
「きれいな指だね」
今までと明らかに違う甘い声音に、海堂はびくりと強張る。
構わず俺は海堂の手からグラスを奪うと、その指を弄ぶようにいちいちなぞった。
「食事してる時、海堂の箸使いがあんまり上品だったから、ついつい見惚れちゃったよ。家での躾がしっかりしていたんだね」
くすくすと笑いながら、海堂の指先にそっと口付ける。
何かを言おうとしているのは、真っ赤になったその顔を見れば分かる。けれど金魚のように口をパクパクさせるばかりで、言葉が出てこない。
俺は指に口付けながら、そこからちろりと舌を覗かせた。それを見た海堂が息を呑むのが聞こえた。
海堂の長い指の輪郭を確かめるように、俺は丁寧に舌を這わせた。
「きれいだよ」
低く、ささやく。
捧げ持つようにした手の甲の向こうに見える海堂の表情は、今までで一番扇情的だった。
精一杯挑むような眼差しで俺を睨みながら、微かに震えているのがいじらしい。
――――きれいだよ、本当に。
俺の手に囚われてもなお、君は変わらずに美しい。
壊したくなくて、汚したくなくて、触れる事すら出来ない臆病な自分がここにいる。そしてその傍らで嘲笑うように、貪欲で狡猾な自分がいる。
これは矛盾ではないのだ、と俺は思い直した。
矛盾ではない。どちらも狂おしいほどに俺自身なのだから。
例えそれがどれほど歪んだ想いなのだとしても、否定しきれない程の質量で、確かに俺の中にある。
「海堂・・・・、逃げないの?」
言いながら、俺は海堂の指先に深く口付ける。聞かせる為にわざと音を立ててやると、海堂は羞恥で泣きそうな顔をする。それがまた、俺の劣情を掻き立てるという自覚もなく。
「逃げるなら今のうちだよ。・・・・逃げたいなら目一杯抵抗しないと。ね?」
逃がすつもりなんてない。なのに口から出るのは弱気な言葉ばかりだった。
「・・・・・俺は、いつも海堂の優しさに付け込んでるな。ごめん・・・、ごめんな」
失いたくないというエゴが、土壇場に来て膨らんでいく。みるみる意気地なしになっていく自分から目を背けるように、俺は海堂の手の甲に舌を這わせた。
「海堂、早く逃げて・・・・。もう、本当に止まらなくなる」
情けなくなるほど勝手な言い分だった。捕えておいて、逃げてくれと請う。馬鹿馬鹿しい事この上ない。
もしかすると俺は、この手から飛び去っていく海堂を見たかっただけなのかもしれない。失うというリスクを犯してでも、その去り際の潔い美しさを、俺は永遠にしたいと思ってしまったのか。
――――大概くだらない男だな、俺は。
自分に自分で呆れて、俺は心の中で呟いたのだった。が、次の瞬間突然自分の頬に走った鋭い痛みに、思考回路は真っ白にフリーズした。
音を立てて俺の頬を引っ叩いた海堂の片方の手は、少し乱暴な手つきで赤くなった頬を撫でた。
「・・・・・・・あんた、俺を何だと思ってるんだ」
低く唸るような声で、海堂が言った。
「俺は何も知らずにあんたの罠に引っかかった、カワイソウな蝶か何かじゃないんだぜ?あんた、俺を見くびり過ぎだ」
驚いて声を失った俺は、きっとこの時、物凄い間抜け面だっただろう。海堂は構わず続けた。
「全然分かってねェよ。俺はあんたが思ってるよりもずっと、きれいでもないし儚くもない。・・・・強くもない。俺が何も考えずにこんな場所にいると、本気で思ってんのか?指舐められてしゃぶられて抵抗しないのは、俺が怯えてるからだとか、本気で思ってるんじゃねェよな?」
勢いでそこまで言い切ると、海堂は長く溜息をつき、再び俺を睨みつけた。
喉元に突きつけられた切っ先のような眼差しに、俺は息を呑んだ。そして、やっぱり海堂はきれいだ、と改めて思った。
造形の美しさではない。その痛いほどに真っ直ぐな生き方が、きれいなのだ。
「おい、聞いてんのか?」
惚けている俺に向かって、不機嫌そうに海堂が言った。
「言ってる意味、通じてるか?」
「え・・・・と、うん?」
言われて、改めて先刻の海堂の台詞を反芻する。そして、はたとその意味に気付いた。
「・・・・・・・・・・・・・えぇ!?」
動揺のあまり、思わず大声で叫んでしまった。海堂は一層渋面を作りながら、既に耳まで真っ赤になっていた。
台詞の一つ一つを裏返していけば、そこに表れるのは。
素直ではない彼の最初で最後かもしれない告白に、俺は信じられなくて何度も瞬きをした。
「始めから・・・・・気付いてた?」
慎重に尋ねた俺に、海堂はぼそぼそと答える。
「今日じゃなきゃダメだ、って言った理由を考えてた。始めから、じゃない。・・・・でも、様子がおかしいなとは思ってた」
「・・・・・・・本当だ。俺は随分、海堂のコト見くびってたな」
明日は祝日で、部活もない。巧く隠したつもりで、俺の下心は見え見えだったと言う訳だ。
けれど海堂はここにいる。そして俺の前に座って、俺の腕の中にいる。
その肩を抱き寄せながら、信じられないほど穏やかな気持ちが胸を満たしていくのを感じていた。
――――参ったなぁ・・・・。
今度こそ、本当に止まらない。
溢れ出てくる感情の渦に眩暈すら覚えながら、俺はきつく海堂を抱きしめた。
その時、ふと思い出したように腕の中の海堂が言った。
「そういや、『俺はプロセスだけで満足できる』とか何とか、言ったよな?」
「ん?あー・・・、確かに言ったね」
「それは嘘だ」
いやにきっぱり言うものだから、訝しげに問い返した。
「何で?」
「だってあんた、プロセスなんかじゃ満足しねぇよ。誰よりも『結果』に貪欲なくせに」
さらりと得意げに言われ、俺は思わず笑ってしまった。
そして意趣返しに、額にキスを落としながらこう返した。
「・・・・・海堂には負けるけどね?」
***
「英二ー?まだ着替えてないのか?」
戸締りを任されている大石は、最後の一人になった相方に声をかける。
「お前、いい加減に早く着替えられるようにならないのか?」
「うっさいなーもう!いいじゃん別にぃ〜。他の人に迷惑かけてないじゃん」
「おいおい、俺に迷惑かかってるだろ」
呆れたようにそう言うと、菊丸はにーっこりと満面に笑みを浮かべた。
「大石は『他の人』じゃないっしょ!俺とお前はダブルスのペアなんだから。野球でいう女房、みたいな?」
「・・・・・・・その例えは、物凄ぉ〜く微妙だな」
くだらない事言ってないで早く着替えろ、と菊丸を急かしていると、部室の扉から新しい人影が現れた。
「不二〜!」
「どうしたんだ、不二」
二人が揃って声を上げると、彼はにっこりといつもの微笑を浮かべる。
「忘れ物。そこの机の上に教科書置きっぱなしにしてて」
そう言って優雅に机の上の教科書を取ると、中身を一応確かめてから鞄にしまった。
丁度菊丸の着替えも終わったということで、三人は一緒に部室を出て校門へと向かった。
「そーそー!今日ね、海堂は乾んちで夕食ごちそうになるんだって。しかも、乾の手料理なんだってさ!海堂大丈夫かにゃ〜」
にししし、と愉快げに笑う菊丸の傍らで、大石はたしなめる様に苦笑した。
「さすがに乾も、アレみたいな食事を海堂に食べさせるような真似はしないだろう」
しかし菊丸の反対側で、不二は意味ありげにくすくすと笑った。
「確かに、海堂が乾の家で『ごちそうになっちゃってたら』大変だな」
あぁでも、明日は休みだから心配要らないか、と呟く不二に、大石は青ざめた。菊丸は不二の微妙なニュアンスに気付かなかったらしく、きょとんとしている。
「不二!!お前、何さり気なくとんでもない事言ってるんだ!」
「やだなぁ、大石。冗談だよ、冗談」
「全然冗談に聞こえないよ・・・・」
微笑む不二に憮然としながら、よもや不二の言葉通りの事態が進行しているとは露ほども思わず、大石は深々と溜息をついたのだった。
end
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→番外編/side-K
◇真田新様から「旦那のサーブは世界一!」開催祝いに頂きました◇
9/14に開催した乾海&鳳宍オンリーイベントのお祝いに頂いてしまいました。
どうですか、この男前な海堂は!
一人でぐるぐる悩む乾もとってもツボです
まずモチーフがね、私の大好きなあの曲でして…。
布教して良かったなあ…(しみじみ)。
とっても励みになりました!
イベントも無事に終了したので皆様にもおひろめです。
実はこの「S-calation」には鳳宍編(side-R)もありまして…。
鳳宍編は同じく主催の間宮君の所にありますので興味のある方は是非どうぞ。
本当にありがとうございました!
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